牛尾神社

小城市小城町池上(平成23年11月2日)

東経130度11分7.41秒、北緯33度15分19.84秒に鎮座。

 この神社は小城市の西外れに近く、多久市東多久町納所と川を挟んで東に鎮座しています。附近は牛尾梅林と呼ばれる景勝地で、梅の開花時期には、梅の香に誘われて大変な人が集まるそうです。
 「牛尾神社参道」の案内がある石柱から、北北東に延びた参道脇には「牛尾公民館」が建設され、40m程で「若王子大権現」の額が掛かる一の肥前鳥居に行き着きます。この後参道は石段となり、途中、左手に金毘羅神宮が祀られていたり、中程より上には右に中宮が祀られたりしています。更に石段を上がると、境内下に市指定重要文化財・慶長2年(1597)建立の肥前鳥居が立ち、すぐ左手には嘗て山伏の拠点だった別当坊が残されています。
 境内に上がるとすぐに文化4年生まれの岩狛さんがおり、正面に唐破風付き入母屋造りの拝殿、流造の本殿が建立されています。又、境内右手奥には龍~、生田宮、辨財天等の石祠が纏められています。
 創建から1200年余りの歴史を誇る古社で、源氏との関わりがある牛尾別当坊は、箱根・熊野山・鞍馬山と並ぶ日本四別当坊の一つとして、威勢を誇っていました。現在は梅林の奥に密やかに鎮座していますが、閑かな佇まいの、整備が整った気持ちの良い神社となっています。

 御祭神:天之葺根命
 祭礼日:春祭・4月15日、例祭・10月15日、秋祭・12月17日
 境内社:金毘羅神宮、龍~、生田宮、辨財天、大日尊、石清水、天満尊、稲荷社等
 由緒:当神社は延暦十五年九月九日大和国吉野の里良厳上人、桓武天皇の勅宣を賜い肥前国堡郡実万ヶ里(今に小城郡西郷という。)に下向ありて、山の頂上に若王子大権現を祭り、併せて一院を建て護国神宮寺福長寿院別当坊という、勅に依り日本四別当一に列す、(第一箱根山別当坊、第二熊野山別当坊、第三牛尾山別当坊、第四鞍馬山別当坊)之れなり。
 当山は専ら西海道鎮護の御祈願所として九国安寧の御祈願を掌れり、その後この僻遠の一霊場が如何に朝野の信仰を博し得たかは延久元年八月欽名天皇の御後胤に当たらせられる大覚僧正、花山院第三の宮覚実僧正の御師弟が遥々熊野から降らせ給ふたことや、保元二年花山院家忠公が一時中絶していた別当坊を再興せられて、琳海親王を別当坊の院主に任ぜられたことによって伺はれる。寿永二年夏源頼朝公が神田二十余町を当山へ寄進せられ同日その臣北条、北畠二氏が各々願文を奉つたことは東鏡(鎌倉幕府日誌)に明記してある。文冶元年源平合戦の砌参河守範頼九州に渡り参州豊前の敵を征し筑前の敵を伐つに当たり琳海親王は当山衆徒兵三千余騎を以つて、熊野山湛僧坊と諜合して豊前日田まで出陣す。平家一族を壇の浦にて殲滅した後天下泰平の御祈願の為に源義経の使者亀井六郎重清を遣はして義経自筆の願文並に義経、弁慶の腰旗、砂金五百両を当山に奉納ありたり。元亀年中鍋島直茂公、大友宗麟の大軍を川上村今山に於いて夜襲の時別当坊琳信一山の衆徒兵を引具して公の軍に加はり名誉の御勝利ありしを以て、勝茂公代より神領十六石三斗七升御改付ありたり。
 古来国主領主の崇敬極めて厚く、徳川時代に於いては旧佐賀藩主より華表並に社殿の造当修築等奉納のことはすべて藩費により支弁せられたり。
 明治維新に際し神仏習合分離と共に若王子大権現を牛尾神社と改称す。
 明治六年村社に列し、昭和十六年郷社に昇格し現在に至る。

神社遠景
参道入口案内 参道の様子
一の肥前鳥居 鳥居に掛かる額
「若王子大権現」
六地蔵 釈尊像
参道の様子
石段参道入口
金毘羅神宮入口
金毘羅神宮 鳥居と額
金毘羅神宮拝殿 金毘羅神宮本殿
石段参道の様子
石段参道脇に祀られる石仏
石段参道の様子
石段参道途中に鎮座する中宮
中宮脇の石祠と石仏
石段参道

境内下、市指定重要文化財・慶長2年(1597)建立の肥前鳥居
別当坊入口
山伏の拠点だった別当坊 別当坊脇の石仏、塔
石祠 六地蔵、中央、稲荷社
境内入口
境内入口にいる文化4年生まれの岩狛さん
尖った大きな鼻先と張り出した長い耳、滑らかな体表が特徴的な狛犬です。精悍さよりも、落ち着いた優しさを感じます。
狛犬の拡大写真はこちらで
(文化4年(1807)建立)
境内の様子
拝殿
本殿
御堂
石碑と塔 犬神塔等
地蔵大神、龍~等 生田宮等
辨財天等 大日尊等
石清水等 天満尊等
石碑等 中央等
石碑
境内から見える小城市小城町池上の様子