山田神社

西松浦郡有田町山谷牧甲2322-5 (平成29年4月6日)

東経129度51分11.23秒、北緯33度13分22.68秒に鎮座。

この神社は、松浦鉄道西九州線・山谷駅の南東400m程の辺り、山谷牧の街外れに鎮座しております。

御祭神 伊弉諾尊・伊弉冊尊・素盞鳴尊・白山比当ス

由緒
松浦市今福に坐す「年の宮」は近江国一の宮諾冊二尊を祀る多賀明神を勧請するもの松浦党から篤い崇敬を寄せた古社である。
党祖源久公嫡直公その弟三子を栄とす。公有田郷文知唐船城を築き年の宮を勧請す。当神社の創祀なり。(平安末期或は建保(1213〜1219)頃とも)。鎌倉中葉蒙古来寇す。松浦党はその采、地を侵され惨禍至大。敵風涛に敗走するも再寇必至に備えて、寧日なき建治2年(1276)城内に円満寺を建つ。戦没家臣鎮魂の意趣も含むか。4代有田給公第2子守をして専ら神仏に奉仕せしむ。爾来720年23代他姓を雑えず。
戦国乱世は名神大社も社領を失い、困窮す。修験御師を諸国に派し、霊験を説き大いに財を募る。特に熊野は山岳信仰に補陀落渡海浄土に向うの仏説を加えて、熊野分霊勧請を奨めて周到なれば、之に應ずるもの30社を超す。
松浦本宗相浦飯盛神社、次で当神社も亦之に倣う。八坂白山の2社を加え、山田野三所大権現の鎮祭を行う。時に永禄4年(1561)6月。大檀主は松浦本宗源親公、並唐船城主有田盛公。大導師は円満寺八世阿泉法印とす。八坂社は熊野本宮の、白山社は加賀白山の勧請神なり。
戦国争覇唐船城主有田氏も有田系又龍造寺系に承継。江戸初期、佐嘉に移館す。松浦系家臣は有田氏被官に名を列ぬのみ。帰農して神社を守り万治(1658〜1660)・享保(1716〜1735)・文化(1804〜1817)・嘉永(1848〜1853)と改修にも十全を尽くす。
江戸時代当地は鍋島藩の治政に入る。藩は東部原野に牧場を設く。軍馬生産の祈願祭事を当社にて行い、藩吏参向通例たり。
明治諸政一新、神社は国家管理となり、山田神社と改称し、郷社格の申請をするも、資料不備却下。大正期平戸、大村、佐賀に史実を探ねて再申。8年11月、村社列格、由緒正しきの証。神饌幣帛料供進の指定あり。同年明治に牧公の唐船山一帯のうち北面2町歩の譲渡を受け社殿をその中央に移し、荒地を拓き、神苑を造成し櫻を植え、その余は神社基本財産の神社林とす。
同14年より神社維持講を経営す。神社及氏子の縁故を探ね北松方面を開拓、1200口を募る。毎月講会落札者より多くの献金を得て、神社の整備更に充実す。特に丹後橋架設に出資して「飛び石」徒渉の苦患を改称す。尚、将来に期する処大なるも支那事変、兵馬倥偬の故を以て早期清算の要請にて、そのこと己む。
昭和20年(1945)8月、神社は公の営造物の地位を脱し、一般宗教法人に列するも「地域和合の原点」「民族文化の源泉」たる本質は不変、氏子又八百年来奉護の至誠に懈怠なし。
境内由緒書き より。

神社遠景。参道入口は画面左手。

一の鳥居

二の鳥居

参道

参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。
(大正13年(1924)甲子10月吉辰建立)

三の鳥居

拝殿

拝殿内部

本殿


毎年「丹後シャクナゲ祭り」が開催されるようです。