矢俣八幡宮

三養基郡みやき町西島(平成23年8月4日)

東経130度27分0.55秒、北緯33度17分30.54秒に鎮座。

 この神社は三根東小学校北に鎮座しています。私達は西から入ってしまったので気がつかなかったのですが、この社の一の鳥居は500m程南の道路の真ん中に立っている珍しい鳥居として有名だということで、見られなかったのはとても残念でした。
 神社の入口にはまだ新しい明神鳥居が建立され、濠に架かる神橋を渡ると境内入口には随神門が建立されています。随神門内には随神さんと共に石の狛犬が置かれています。
 境内はすっきりと整備され、変わった形の玉垣の奥に、文化13年生まれのぬめっとした身体の狛犬が護る、唐破風付きの大きな拝殿と、流造の本殿が建立されています。又、境内には境内社や末社が点在して祀られています。

 御祭神:応神天皇、神功皇后、比盗_
 祭礼日:10月23日(H23年)
 境内社:多数
 由緒:言い伝えによると五十七代陽成天皇のときに、藤原鎌足の後裔である藤原秀清が官吏として、この矢俣保に赴任するとき、石清水男山八幡宮の御分を奉じてこられ、元慶二年(878)四月十五日に坂口村開平に八幡宮を勧請された。
 その後、年数を経て宮村に遷座されている。納江出雲守源義宣がこの矢俣郷を領有したとき、八幡宮をひどく崇敬して弘安六年(1283)に社殿を再建し、九月二十七日を祭日と定めて神事を復興した。このときから、能舞・神楽・流鏑馬・浮立が奉納されているようである。
 慶長五年(1600)鍋島勝茂公が徳川家康の命をうけて、柳川の立花宗茂を攻めるにあたって、北市場の渡しを渡られたが、それに先立って、この八幡宮に参詣し、戦勝祈願と同時に徳川・鍋島の和合を祈願された。そのことの成就によって、特に藩主代々の崇敬をうけられた。
 成富兵庫茂安公が千栗堤防を築かれるとき、今、神社の裏にある“約束の地”で、神社移転と堤防工事の成就を祈願されて神社をこの場所に移転し、元和二年(1616)には社殿その他の諸設備が完成した。特に全長500mの長い参道もこのときに整えられ、流鏑馬が賑やかに行われた。
 この神社の移転に合せて今まで通りの祭典料を藩主側から手渡すことと、祭礼を今後も継続するようにとの、成富兵庫茂安公の真筆の文書が今も保存されている。
当神社独特の浮立は、県下最古の浮立といわれている。…後略…。

神社遠景
社頭
入口に立つ鳥居 鳥居に掛かる額
町重要文化財・神橋
随神門
随神門内にいる神門狛犬
随神さんと共に門内にいるこの狛犬は、正面はかなり厳ついお顔ですが、横顔・体型はライオン等の動物に近くなっているので、比較的新しい物かも知れません。
狛犬の拡大写真はこちらで
境内の様子
境内奥にいる文化13年生まれの狛犬
この地域には時々蹲踞と構えの組み合わせの狛犬がいますが、この狛犬達はその蹲踞の狛犬と同様にぬめっとした滑らかな体つきをしています。阿吽の大きさが随分違うのは石の大きさの所為でしょうか?
狛犬の拡大写真はこちらで
(文化13年(1816)丙子建立)
上の境内の様子
拝殿
拝殿内の様子
本殿
境内社
末社 末社
境内社 彰聖塔
社務所