千栗八幡宮

三養基郡みやき町白壁(平成16年8月23日)

東経130度28分51.85秒、北緯33度19分40.75秒に鎮座。

 長い階段を上がった小さな丘陵の上に鎮座する神社です。この千栗山は、海抜30m余の小山で、息を切らして境内に登り詰めると、下界の眺めが良くて、木々の緑に囲まれ静寂に包まれた大変結構な神社でした。

 御祭神:應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、難波皇子、宇治皇子、住吉明神、武内宿禰
 祭礼日:3月15日・御粥祭 五穀豊饒を祈り粥占神事、8月1日・名越祭 無事息災を祈り茅の輪神事、9月15日・例大祭(俗に放生会)御神事、行列浮立
 境内社:宮地嶽神社、武雄神社、鳩森稲荷神社
 由緒:神亀元年(724)聖武天皇の勅を奉じて養父郡司 壬生春成が、この地に社殿を、 造営し創建したと伝へている。以来本宮は宇佐神宮の五所別宮の一と称せられ、朝廷からも厚く尊崇を受けた。慶長14年(1609)には後陽成天皇より「肥前国総廟一宮鎮守千栗八幡大菩薩」 の勅額を賜わった。
 中世以降は肥前国一宮と呼ばれている。

神社入口
入口にいる狛犬
やや奥目で穏やかな風貌をしています。大きな垂れ耳に縦ロールの鬣がよく似合います。垂直に立つ前肢と水平に伸びる後肢、お尻に張り付き背中で少しだけ立っている尾等、古い狛犬の特徴を良く残しています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(文化5年(1808)8月吉祥日制作)
一の肥前鳥居 社号標
「国弊小社千栗八幡宮」
石段を上がると、境内入口脇にいる肥前狛犬
石は磨耗していますが、全体的によい保存状態だと思います。潰れた顔に線書きのような眼をして、笑った様な穏やかな表情をしており、阿は見事に並んだ平歯の中から小さな牙が可愛く出ています。鬣の縦ロールの先は軽くウェーブがかかっています。お腹の下は刳り抜きが有りませんが、前脚の間は抜けています。とっても可愛いですね。
狛犬の拡大写真はこちらで
(安土桃山年間(1575-1603)建立)
社殿

平成25年6月26日、『ゴマ犬さん』より次のようなメールを戴きました。
『佐賀県みやき町千栗八幡の階段上の肥前狛犬は安土桃山の作として町の文化財に指定されました。』

そこでネットで文化財を調べると「千栗八幡宮肥前狛犬 文化遺産オンライン」に、この狛犬について次の様に記されていました。
『安土桃山/安土桃山年間1575-1603砂岩系の石材を使用した石造彫刻による狛犬1対。肥前狛犬の特徴を良好に示している。阿像の像高は57.5p、吽像の像高は50.0pと肥前狛犬の中では大型の部類に入る。阿像・吽像ともに…阿像―像高57.5p、脚部間−48p、吽像―像高50p、脚部間−50p 1対
みやき町指定 有形文化財(美術工芸品)
 奉納者については、いくつかの説を展開することが可能であるが、まず阿像の右銘と左銘が同一人物であると仮定し右銘の「藤原 朝臣 信○」を「藤原朝臣信 親」と読んだ場合、龍造寺家臣「龍造寺信親」となり「龍造寺掃部助(かもんのすけ)」とも名乗った人物でもあることから、左銘とも符合する。一番妥当な説 と考えられるが、同一狛犬の左右銘に同一人物の異なる名称を記すのか、という疑問が残る。次に右銘と左銘が別々の人物と仮定し右銘の「藤原 朝臣 信○」 を「藤原朝臣信忠」と読んだ場合、「天正十一年(1583)千栗宮宝殿棟札写」に「大願主出雲兵部大輔藤原朝臣信忠」の名が記されているとおり、千栗八幡 宮宮柱である出雲家の人物であると推定可能である。一方、左銘の「龍造寺 掃部助」は、前述の「龍造寺信親(掃部助)」と考えてもよいが、別の説として、 龍造寺氏が西島城の横岳氏を攻めた際、神埼郡崎村城主であった犬塚家広を中津隈城に配し、守りとしたことが知られているが、この犬塚家広と同族でほぼ同じ 時代の人物として犬塚掃部助鎮盛(しずもり)が存在し、彼もまた「掃部助」を名乗っていることから、龍造寺の家来である「掃部助」という記名の仕方であれ ば、犬塚掃部助鎮盛の可能性もある。』

 管理人から一言:私達は銘が読み取れなかったのですが、奉納者名からある程度の年代が推定・確定されるのですね。佐賀で建立年代が分かる肥前狛犬では最古なのではないでしょうか?文化財に指定された現在は御簾の中に鎮座しているようですが、公開されることはあるのでしょうか、境内にいる内にお目に掛かれて幸福でした。