天子社・乙宮社

杵島郡江北町上小田3981(平成23年11月5日)

東経130度08分19.30秒、北緯33度13分15.12秒に鎮座。

 この神社は34号線・杵島商業高校前信号の北約800mに鎮座しています。周囲には溜池が点在し、クリーク(用水路)が縦横に作られた水田地帯で、参道の入口には神橋が架かり、鳥居が建立され、そこから一般道と共用の参道が400m程西に向かっています。
 神社入り口には二の鳥居が建立され、ご神木の大楠が天高く聳えています。参道を進み、石段を五段ほど上がると境内で、そこにも鳥居が建立され、広々とした境内右側には御堂が配されています。背の高い灯籠を左右に見て進むと、又、五段ほどの石段の先に上の境内が作られており、大正14年生まれの狛犬が護る拝殿、本殿が建立されています。
 この社と平行して境内左側にも「乙護法」の額が掛かる鳥居が建立され、この社の上宮となる乙宮社(上宮乙護法)が鎮座しています。乙宮社には珍しい明治13年生まれの恐竜型の岩狛がおり、大きな石祠を中心に二社の石祠が建立されていました。又、境内奥の森の中には、古社の証ともいえる石祠や石仏が沢山見られます。
 下小田の氏神となった下宮・若宮八幡宮の所在が、どの地図にも記載されていないので、参拝できなかったことが残念でした。

 御祭神:応神天皇、仁徳天皇、仲哀天皇、神功皇后、豊受大神、菅原道真、崇徳天皇、天照皇太神、大山祇神、倉稲魂神、素戔鳴尊
 祭礼日:7月11日・祇園祭、9月29日・例祭
 境内社:沖社、庚神社、厳島社等
 由緒:天子神社縁起
 神功皇后道徳山に野立し給う時に始まり土民がその御聖徳を欽仰するのあまり、その行啓由縁の地を朴し仲哀天皇をも合祀して鎮護神とした。岡の明神である。
 天平年間(729)に、ときの小田駅長、広足、この社に応神天皇をも勧進申し上げ新たに社殿を造営。岡の明神を改め大森大明神と尊称し宝祚の無窮、五穀の豊饒、交通の安全を祈願することとなった。之が天子宮の起源である。
 文治2年(1186)広足の後裔、小田十郎蔵人が地頭に補せられ佐賀郡小津郷の地頭である龍造寺季益と共に鎌倉に勤番して帰任するに当り、十郎蔵人は信仰せし鎌倉の若宮八幡宮の御分霊を奉戴して馬頭観音の傍に一社を建立する。このとき仁徳天皇を併祀して若宮八幡宮と称し奉る。
 足利三代将軍義満の頃、永徳元年(1380)小田十郎蔵人の子孫である小田の庄司広次は小田三社宮を定む。大森神社を再建し仲哀天皇、神功皇后を祭祀、上宮乙護法(今の乙宮社)とする。氏子、草葉小路、猶原周囲民とする。
 後世室町時代永禄年間1558〜1569草場民部大夫は御神領を寄付し祭事及社殿修覆は厳重に施行する。応神天皇を祀れるところを中宮、天子社とし氏子、上小田の住民とする。若宮八幡宮を下宮とし氏子、下小田の氏神とす。
 戦国時代天正2年(1574)須古高城の平井経治が龍造寺隆信に亡ぼさる。平井経治の家臣小田の領主草場民部大夫は戦死。草場氏絶えて社宮は見るものはなかった。天正3年(1575)龍造寺隆信、三根郡中野城より馬場鑑周を小田の領主とする(馬場氏は後3代36年間小田に居城する)。神社佛閣を修復するものもなく天子社は荒廃に帰していたので、天正5年(1577)人民安堵、国家安泰祈願のため奉料及び修繕料を下付。修復を行う。
 慶長年間(1596〜1614)鍋島直茂、本殿拝殿修復、毎年御供米下さる。寛永年間(1624〜1643)鍋島勝茂、社殿再建、御寄進。延宝2年(1674)鍋島光茂(3代)、社殿修繕、須賀社(6/11例祭日祇園祭)検地の際、天子社境内、反別7反、甚畝拾歩、免税地と定む。延宝5年(1677)藩府より御下知ありて、神事祭礼の儀は、毎歳9月29日を以て祭日と定める。流鏑馬式執行候申し達せられ、御供米、注連木、御供薪等、毎歳恒例之通、御鹿倉(官山)より黒印を烙記して差し出され神幸の御神馬、馬具、甲胄等厩の別当を添え武庫所より差出さる。かくて御祭料は明治3年まで藩府より支出あり。
 明治4年伊万里県の際、御祭料が引き揚げらる。明治6年村社に指定。祭典料その他祭礼費は民負担と定めらる。明治40年2月15日、神饌幣帛料供進、指定氏子戸数440戸。
 祭神は、応神天皇、仁徳天皇、仲哀天皇、神功皇后、豊受大神、菅原道真、崇徳天皇、天照皇太神、大山祇神、倉稲魂神、素戔鳴尊の11柱。
 境内に、海律見神を祭る沖社、猿田彦神を祭る庚神社、三女神を祭る厳島社等あり。境内、1236坪、神社三社あり。
(サイト「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」より)

天子社(中宮)

参道入口
参道入口のクリーク(用水路)に架かる神橋
参道入口に立つ一の台輪鳥居 鳥居に掛かる額
一般道と共用の参道の様子
社頭
神社入口に架かる神橋
神社入口に立つ二の肥前鳥居 鳥居に掛かる額
参道の様子
下の境内入口
下の境内入口に立つ三の肥前鳥居 鳥居に掛かる額
下の境内の様子
下の境内右側に配された御堂
上の境内入口
上の境内の様子
拝殿前、大正14年生まれの狛犬
台座が高く、上半身の発達・筋肉を表す瘤・古武士然とした風貌等から、実に堂々とした貫禄十分な狛犬に見えます。
狛犬の拡大写真はこちらで
(石工・岸川弥市 大正14年(1925)4月17日建立)
拝殿
拝殿内の様子 拝殿内に掛かる額
本殿
参道脇のご神木・大楠
境内のご神木・大楠

乙宮社(上宮 乙護法)

神社入口
台輪鳥居 鳥居に掛かる額「乙護法」
境内にいる明治13年生まれの狛犬
阿は恐竜型の岩狛、吽は恐竜型の構えの組み合わせです。このタイプは、今まで見てきた限りでは小城市・内砥川八幡神社(上宮)の安政2年(1855)作しかありませんが、阿は岩から身を乗り出して臨戦態勢を取り、反対に吽は低い位置から飛び出しそうな勢いを感じさせます。全体的に高い技巧と装飾性が感じられ、力強さや威圧感が抜群の狛犬達です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(明治13年(1880)庚辰6月建立)
境内の様子
乙宮社石祠
向かって左の石祠 向かって右の石祠

石祠 水神 他
石碑 末社
天満宮 他 石祠 石仏
玉森稲荷、馬頭観世音 他 八幡宮、天満宮 他
石祠 庚申、青面金剛、太神宮 他