救世(くせ)神社

鹿島市三河内甲3022(平成23年8月7日)

東経130度4分22.09秒、北緯33度5分30.52秒に鎮座。

 この神社は能古見小学校浅浦分校に隣接して鎮座しています。神社の境内が其のまま学校の校庭として使われている様な感じでした。
 低い石垣の上に鳥居が立ち、周囲に遊具が設えてある境内の左右には、公民館と分校が配されています。奥の二段に積み上げられた石垣の下段に明治生まれの岩狛さんがおり、上の境内に社殿が建立されています。開放的で大きな拝殿の後ろに本殿の鞘堂が建ち、「鞘堂内に肥前狛犬が居る。」と遊具でお孫さんを遊ばせていらしたご近所の方が教えてくださり、堂内の電気まで付けてくださったので、扉の外側から本殿前の肥前狛犬の撮影をさせていただきました。重要文化財に指定されている狛犬は、中々直に見る機会が少ないので、とても貴重な経験をさせていただきました。

 御祭神:倭姫命、大山祇神、管原道真公
 祭礼日:9月23日・例大祭、11月1 2日・三嶽獅子舞の奉納
 境内社:天満宮、山神宮、国底立尊
 由緒:本社は鎮守社と称し、54代仁明天皇承和年間(834年以降)の勧請に係ると云う。その詳細は不明。以来幾多の盛衰あり。文明9年2月(1476)千葉勢と大村勢との戦ありて互に押領せんとするも大村勢の領有となる。永く維持するも後に維持困難となり土豪の領有となるも、これも永く続かず荒廃する事140年に及ぶ。元和3年(1617)時の領主嬉野淡路守直資に至り深く之を漑嘆し、神殿拝殿を建立し領内鎮守氏神と為し、本勝坊山崎某を宮司となし、境外の地所御免地として壱町五反歩並に米五石を寄附し永く祭祀料及社人の経費に充てらる。本勝坊山崎某宮司は御神慮を畏み鎮守社を改め救世神社となす。明治になりて境外地は嬉野家所有となり米五石も廃せられた、以来、祭祀維持管理は悉く信徒の負担する所となる。大正5年8月5日大山祇神を合祀。大正6年1月23日天満神社と山神社を合祀。(社殿内案内より)

 救世神社は倭姫命を祀った神社です。江戸時代に能古見浅浦地方を領有した嬉野元可が、味島神社(嬉野市塩田町)の霊を分祀したと伝えられ、元和3年(1617)の創始とされますが、詳しい由来などは明らかではありません。
 救世神社の神殿には一対の石像の肥前狛犬が安置されています。この狛犬は、彫りは浅く浮き彫り様式で、耳・目、顎などを弧線で、鼻・口・前脚などを直線で素朴に表現しています。口は一本の線が顔面いっぱいに引かれるだけで、牙や頭部の巻き毛なども刻まれず、尻尾もわずかに突起させるだけで、非常に抽象的な形状をしています。
 背面に「吉田□□衛、元和二年八月吉日」と銘があることから、江戸時代前期の元和2年(1616)8月に寄進されたことが分かります。彫像年代の明らかな肥前狛犬では、県内でも最古の部類に属していて、鹿島市重要文化財に指定されています。
 なお、毎年9月23日の秋祭りには、浅浦の面浮立(市指定重要無形民俗文化財)が奉納されます。又、11月2〜3日の三嶽神社例大祭では、三嶽神社の下宮として神輿の行幸が行われます。(神社入口案内より)



社頭
入口と鳥居 鳥居に掛かる額
下の境内の様子
社殿の建つ上の境内の様子
境内中段で目を光らせている岩狛さん
牡丹の花と葉の彫刻が施された装飾的な岩、殆ど立ち上がった姿勢でその岩に前足をかける狛犬。厳つい顔の狛犬と華麗な牡丹が、対比の妙な調和を見せています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(石工・筒井弥太郎 明治44年(1911)1月建立)
開放的で大きな拝殿
本殿鞘堂
本殿前にいる元和2年生まれの市重要文化財・肥前狛犬
案内には『この狛犬は、彫りは浅く浮き彫り様式で、耳・目、顎などを弧線で、鼻・口・前脚などを直線で素朴に表現しています。口は一本の線が顔面いっぱいに引かれるだけで、牙や頭部の巻き毛なども刻まれず、尻尾もわずかに突起させるだけで、非常に抽象的な形状をしています。
 背面に「吉田□□衛、元和二年八月吉日」と銘があることから、江戸時代前期の元和2年(1616)8月に寄進されたことが分かります。彫像年代の明らかな肥前狛犬では、県内でも最古の部類に属していて、鹿島市重要文化財に指定されています。』と書かれている江戸時代初期の貴重な狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(石工・吉田□□衛 元和2年(1616)丙辰8月吉日建立)
太神宮、天満宮などの石祠 庚申塔等
下浅浦公民館脇に鎮座する天満宮