大村神社

唐津市浜玉町五反田219 (平成30年12月24日)

東経130度04分09.82秒、北緯33度26分27.06秒に鎮座。

この神社は、JR筑肥線・浜崎駅の東3km程の辺り、五反田の街中に鎮座しております。

御祭神 藤原広嗣朝臣

由緒
藤原広嗣公は、聖武天皇(奈良時代)の天平12年(740)10月15日逝去。御連枝八男のうち三柱を当地に祭る。公は、大職冠藤原鎌足の孫式部卿宇合の長子で、聖武天皇の母君と光明皇后は叔母にあたる。
一門の繁栄は類ないほどであったが、痘瘡の蔓延により衰退し、政務の中心は、唐から帰朝した、僧玄ムと吉備真備に移った。天平8年(736)公が大養寺の守に任ぜられると玄ム、真備の讒言により、太宰少貳として筑紫に退けられる。その後は万民を酷使と重税に苦しめる悪政が続けられていた。公はこれを上表し二奸を退けることを乞う。
二奸は「広嗣反乱す」とし、大野東人をして、討伐に向けた。公は、板櫃川(北九州市)に対陣するが「勅使ある」を聞き「朝に敵するに非ず、二奸を退けるを乞うのみ」として、海外に逃れんとするが、荒天のため大村の里に漂着し、斬せられた。公の死後、天災地変、悪疫が続き「広嗣の霊のなすところといわれ、玄ムを筑前の観世音寺に弔わしめるも、まもなく死去。ついで真備も筑紫守に左遷されるが、不祥事が続くため、肥前守に移された。
真備は天平勝宝4年(752)、当地に無怨寺を建立し、厚くその霊を慰めたといわれる。その後無怨寺大明神として崇敬をあつめていたが、明治の神仏分離により大村神社と改称した。
境内由緒書き より。

参道入口

参道

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和15年(1940)3月建立)

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和17年(1942)3月建立)

拝殿内部

本殿


合祀社

愛宕山

御神木