波多八幡神社

唐津市北波多稗田2155 (平成29年4月6日)

この神社は、JR唐津線・本牟田部駅の西5km程の辺り、稗田の街外れに鎮座しております。

御祭神 息長帯姫尊・品陀和気命・武内宿禰命
相 殿 葛原親皇命・菅原道真

由緒
当社の社伝によれば人皇第66代一条天皇の正暦元年(990)源頼光は肥前守に任ぜられて当国に西下した時に、その家臣四天王の一人豪将渡辺源吾綱も之に従って下向して、松浦の地に入って禅田村に居館を構えた。この時渡辺源吾綱は京都の石清水八幡宮の御分霊を当地に勧請して当社を鎮守神とし、小祠を創建して封地家門の永昌を祈願したのが当社の起源と伝えられている。その後平安朝末期渡辺源吾綱の曽孫波多源次郎持が岸岳城を築城し、それに拠ってからは更に当社に対しての尊崇も極めて厚く社領250石を寄進し岸岳城の祈願所と定めた。
爾来450年間波多氏17代にわたり崇敬の誠をつくし奉仕したが、人皇第107後陽成天皇の文禄3年(1594)、第17代上松浦党領主波多三河守親公は時の関白豊臣秀吉の怒りにふれ(矛盾した改易理由)文禄3年(1594)2月所領没収の上流罪に処すとの命令を受け、身柄は徳川家康に預けられ常陸国(茨城県)筑波山麓に流罪となった。従って一族家臣等も離散して終い、450年間上松浦地方に君臨した松浦党の領袖波多氏は第17代波多三河守親公で滅亡した。
当社の社領も没収され社運も衰微したものの如くであった。しかし郷民の崇敬心はこの事実に屈することなく、敬神の念は聊も変らず、爾来子々孫々相承けて産土神(氏神)と仰いで尊崇し、地名に因んで波多八幡神社と号した。
明治4年(1871)社格の制定に際しその顕著なことにより村社に列せられ更に明治18年(1885)郷社に昇格、大正元年(1912)幣帛供進の指定を受けた。尚明治4年(1871)明治維新の官制が改まり、神祇省が設置され、祭祀令の発布と共に神社統合令により相殿に葛原親皇命、菅原道真公を合祀された。昭和54年(1979)が当社創始より壱千年の式年に当り、鎮奉壱千年式年祭と波多氏一族の慰霊大祭を盛大に斉行された。我等郷民氏子はかく由緒ある当社の歴史に鑑み、祖先の道統を伝えんと念願するものである。
境内由緒書き より。

公道を挟んで反対側に立つ一の鳥居。

参道入口

参道

境内

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(明治27年(1894)2月15日建立)

本殿


波多大明神

一の鳥居脇の末社

石祠

河童の母子