楠久(くすく)神社

伊万里市山代町楠久328 (平成29年4月6日)

東経129度49分31.91秒、北緯33度17分34.11秒に鎮座。

この神社は、松浦鉄道西九州線・楠久駅の北西700m程の辺り、山代町楠久の街中に鎮座しております。

御祭神 応神天皇・須盛男命・菅原道真・言代主命・大山祇神・塩竈神・倉稲魂命・猿田彦神・大安女神・大名持神・綿津見神

由緒
大治年間(延久元年(1069))松浦党太祖「源大夫久公」宇野御厨検校(西・北・南松浦地方、天皇家の荘園で、後、伊勢大神宮荘園となる。)の命を奉じ、京都より北松浦郡今福に下向し、梶尾城を築く。
次いで、その孫、松浦党第二代党祖「源四郎大夫直公久安年間(1145〜1250)」は、本城を山之寺に置き、その政庁を東山代村の里舘に設け(青幡神社の南東百間)北松浦郡・有田郷・壹岐及び彼杵郡を始める。「源直公」没後、その子「山代源六郎圍公」(山代の祖)をして山代郷を治めさせ、他子(八人)を各地(大川・有田・今福・他)に封ず。
「山代圍公」の六世の孫に「山代源三郎正公」ありて山代郷を治め、後、舎弟「楠久源三郎安公」をして楠久に分封(財産分け)す。「安公」は楠久越山に館を設け、楠久を治め、守護神として「大行神社」を建設す、と云う。当時は元弘年間(1331〜1333)であり、元弘3年楠久家は官軍に属す。
元来、楠久は伊万里湾上の海辺にして、各地入江を生じ住民点在、各地に小祠を祭りて大正時代にいたる。
大正7年(1918)9月6日、八幡神社境内に「大行神社・天満神社・福山神社」を合祀して、次いで大正7年(1918)12月20日「楠久神社」と改称す。・・・・・
境内由緒書き より。

参道入口と一の鳥居

二の鳥居

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(明治12年(1879)建立)

拝殿内部

本殿


石祠

御神木