高石市取石2(平成18年1月2日)
この神社は阪和線・冨木駅の東南東約500mに鎮座する式内社です。
縁起には、古事記下巻に兔寸河(ときがわ)のほとりの巨木伝説から、この地が、古く先史時代の樹霊信仰と、農耕民族の祭祀場、つまり太陽信仰の聖地であったとされています。
その後、奈良時代の天平勝宝4年5月(752)、古代祭祀を司る中臣氏の一族、殿来連(とのきのむらじ)竹田亮が祖神・天児屋根命をこの地に奉祭し、太政大臣藤原武智麿その子大納言恵美押勝(藤原仲麻呂)が相次いで、この里に来住したと伝えられています。とあります。
現在の御祭神は天児屋根命、大歳大神、壷大神、菅原道真公、誉田別尊ですが、上記の「巨木伝説」とは、「古事記」下巻の仁徳天皇の段に、「免寸河の西に一本の高い樹木がありました。その樹木に朝日があたれば影は淡路島におよび、夕日があたればその影は高安山を越えました。ある日、この樹木を伐って枯野と呼ばれる船を作り、その聖水を天皇に献上しました。この船が壊れてからは、その廃材を焼いて塩を作り、
その時、燃えない材木があったので琴を作ったところ、素晴らしい音色を発し、遠くの村里にまで響きわたりました。」というもので、「免寸河」とは、神社の東南を流れる現在の「富木川」のことです。
また余談になりますが、歴史好きなら良くご存じの大納言恵美押勝(藤原仲麻呂)の「恵美押勝」とは、時の女帝・孝謙天皇が改名させた名前だそうですが、「顔を見ただけで、微笑んでしまうくらい愛しい、何者にも勝る人」という意味だそうで、仲麻呂は、道鏡が出てくるまでは、女帝の一番のお気に入り、相談相手だったのです。ところが道鏡の出現により、その地位が危うくなってしまったわけです。私は孝謙天皇と道鏡のスキャンダルは、政治的に作り出された陰謀だったと思っていますが、ある意味天皇をも凌ぐ一大権力者だった藤原家に睨まれた道鏡は、政治の犠牲者だったといえるのでしょう。
現在では伝説に残るような巨木はありませんが、それでも境内至る所に楠、樫、榊などの多種類の木々が生い茂り、気持ちの良い杜を形成しています。また私ども狛犬ファンには見逃すことの出来ない、参道狛犬7対、神殿狛犬2対が待ってくれています。
神社入り口 | 参道の様子 |
文政3年(1820)生まれの人の良さそうな浪花狛犬。 阿の鼻と、吽の顎のあたりの曲線が、得も言われぬ良い味を出しています。 |
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(文政3年(1820)9月吉日建立) |
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天保2年(1831)生まれの和泉砂岩の浪花狛犬。 御影の外の狛犬と年代は変わらないのですが、剥落が始まっています。 この子達も異様なほど鼻が大きく見えます。 |
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(天保2年(1831)4月吉日建立) | |
明治32年の優雅で整った感じの狛犬。 この子達は浪花という感じがしません。 りっぱな胸と細い前脚、太くて装飾的な尻尾、 果たして大阪の石工さんの制作物なのでしょうか? 阿は口中に玉を含んでいます。 |
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(明治32年5月吉日建立) | |
境内入口の大きな岩と狛犬。この岩には注連縄が架けてありますが、どんないわれがあるのでしょう? | |
境内入口の文政12年(1829)建立の浪花狛犬。 大きな口で顎が張り、古武士を思わせます。 |
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(文政12年(1829)8月建立) | |
立派な拝殿 | 本殿側面 |
拝殿前の狛犬。 この手の狛犬は滋賀でよく見かけましたが、ここのは一段とごつくできています。 |
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(明治36年1月建立) | |
拝殿前のオデブ系、年代不明の浪花狛犬。 阿は口中に玉を含み、吽には小さな角が付いています。 ギョロ眼、たらこ唇で、内の親戚にもこんな顔の人がいたような…。 親しみのある顔立ちの狛犬です。 |
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本殿前にいらっしゃる金色の神殿狛犬。 眉毛や鬣が白く翁を連想させますが、顔立ち、筋肉隆々の体つきは、 若人そのものという凛々しい狛犬です。 |
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本殿の縁に居る神殿狛犬。 余りに遠くて、また柱の影でよく見えなくて、 写っていればラッキーというつもりで撮影してきたのですが、 眼が緑色で、上品でありながら逞しいという相反する要素を満たした、 絶品の神殿狛犬でした。 |
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境内社・天満宮 | |
天満宮の浪花狛犬。只笑ってしまいます。 見た人を楽しませてくれる、良い狛犬といえるのでしょうか? |
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(昭和57年9月吉日建立) | |
ご神木の楠の大木 | |
狛犬の拡大写真はこちらで![]() |