四條畷神社

四條畷市南野2-18-1(平成24年1月5日)

東経135度39分7.1秒、北緯34度43分45.06秒に鎮座。

 この神社は建武中興十五社の一社で、四條畷駅の東約1km、飯盛山山麓に鎮座しています。
 170号線脇の参道入口の大鳥居を潜り、550m程東に歩くと突き当たり、境内入口に二の鳥居があり、そこから石段参道を登ります。注連柱や狛犬を脇に見て左に曲がり、社務所前を通り、右に祀られる有源招魂社・楠天神社に参拝し、尚も参道を行くと、三の木製伊勢鳥居の奥が境内です。
 大きな森を背景に、明るく綺麗に整備された境内中央奥に、拝殿と回廊が、塀内に流造りの本殿が建立されています。回廊左手には御妣神社の拝殿が造られ、やはり塀内に、本殿と並列の形で御妣神社本殿が建立されています。
 私達が参拝したのはもう夕方の5時を過ぎた時間でしたが、参拝者が後を絶たず、楠公が未だに如何に親しまれた存在か…がよく分かる神社でした。

 御祭神:贈従二位 楠木正行卿、贈正四位 楠木正時卿、贈従四位 和田賢秀卿、他 殉節将士二十四柱
 祭礼日:例祭・2月12日、春大祭・4月5日、秋大祭・10月5日
 境内社:御妣神社、有源招魂社、楠天神社
 由緒:明治天皇の思召により明治22年別格官幣社に列格仰下され翌年鎮座
 楠木正行公は楠正成公の嫡男であり、正成公の大楠公に対して小楠公と申し上げる卿は延元元年(1336)湊川へ出陣を競られる父君と桜井の駅似て訣別されたが時に御年11歳以来母君に孝養を尽くして臥薪嘗胆読書練武に励み報恩の至情を捧げた 正平2年(1347)12月後村上天皇に拝謁国難に殉せん事を誓い如意輪堂の扉に鏃をもって決死の和歌を遺された
 翌年正月敵将高師直の軍勢八幡を発し河内に至るや正行卿一族は寡兵よくこれを迎え撃ち獅子奮迅せられたが満身に創を受け遂に殉節せられた時に御年22才の青年であった この正義に燃えたる小楠公の事蹟と吉野朝史の一齣は四條畷に永く留められ万古に変らぬ飯盛山は青少年の徳義昂揚を叫び老松は史蹟を語っている
(境内案内板より)

 楠木正行公は楠正成公の嫡男であり、忠孝両全、情厚く、知勇にすぐれ、検非違使、左衛門尉となり、河内守をも兼ねられた。地元の人たちからは小楠公さんと慕われている。父正成公は、延元元年五月二十五日湊川の戦で自刃された。出陣に当り、御年わずか十一歳の若さの我が子正行公と桜井の駅(三島郡島本町山崎)で今生の別れをされ、「父の死後は足利の天下になるだろうが、どこまでも正統の天皇をお守りせよ、それが父への孝行になるのだ」と遺訓を残され、身も心も我が子に伝えて出陣された。(桜井の駅にある子別れの碑は、この話に感激した英国公使パークスが最初に建てた)。足利高氏より送られてきた父正成公の首を見た時、悲しみ余り後を追って自害しようとしたが、「父正成公と桜井の駅で今生の別れをした時の遺訓を忘れたのか」と母に懇々と諭され奮起し、不利を覚悟の上一身をなげうってあくまでも正統の天皇を守り、朝敵征伐を宿願とされた。積極的な戦法でしばしば敵を破り、正平二年十一月の瓜生野の戦い(現在の平野区瓜破西付近)では、数倍の敵を父正成公ゆずりの見事な采配によって打撃をあたえた。敗走する多数の敵兵が、渡辺橋(現在の中央区天満橋付近)から落ちて溺れるのを正行公は救いあげ、折からの寒気に凍える者に衣薬を与え、傷の手当をして京都へ送り返された。(ナイチンゲールが、敵、味方の区別なく、傷ついた兵士を看護した約五百年も前の話であった)。この博愛の精神が、明治になって西洋の赤十字精神が日本に入ってきた時、日本人に受け入れられる礎ともなった。足利高氏は、度々の敗戦に驚き、腹心の高師直、師泰を総大将に八万の大軍を向かわせた。正行公は、この戦いに死を覚悟し、吉野の行宮に参内し、後村上天皇に「此度は、敵も大軍を集めて攻めて参ります。私も生きるか死ぬかの大決戦を致します。最後の思い出に天皇のお顔を拝してから参りとうございます」と申し上げた。天皇は「私はお前を自分の手足のごとく思い頼っている。決して無理なことはしないように」と仰せられ、天皇のお言葉に感泣して、先帝後醍醐天皇の御陵を拝し、次いで如意輪堂に行き一族一四三名の名を留め、
 『かへらじと かねて思へば あづさ弓
  なき数に入る  名をぞとどむる』
の辞世の歌を記して出陣された。
 正平三年正月五日三千の兵を率い枚岡の往生院に本陣を置いた正行公は、一挙北進し、深野池の東野崎に構える高師直の先陣を撃ち破り、四條畷に進出し、正行軍は、全軍一丸となって突き進み、その奮闘に敵勢はたじろぎ、一度は、師直の本営に迫り師直を討ち果たしたかと思ったが、上山某なる替玉であった。その後激戦は続いたが、多勢に無勢、兵力不足はいかんともしがたく、残るは三〇名足らずとなった。ご自身も重傷を負い、後方との連絡も経たれ、ついに二十三歳を一期として、深野池の東北、葦の茂れる所にて、弟正時公と差し違え自刃された。(このところをハラキリといった。古戦田なる地名も三カ所あった。騎士道の国英国のイートンパブリックスクールの壁には、小楠公四條畷奮戦の図が掲げられているとのこと)。
 小楠公の御墓所は当社参道を下り西へ約一キロ、往時深野池の堤防であった所にある。正行公は大東市字ハラキリにおいて自刃されたが、ご遺体は直ちに現在の場所へ移され南無権現と書いた小碑を建て二本の楠を両脇に植えて墓とした。その楠は現在幹廻り十メートル以上の大木に成長し、大阪府の天然記念物に指定されている。
 明治維新の後、住吉平田神社の神主三牧文吾氏らは小楠公自刃の地四條畷に、神社創建を熱心に願い出、その後再三懇請し、明治二十二年六月に、当時大阪府知事であった西村捨三氏より明治天皇に神社創立並に、社号の願出をし、有志の創立願いが、明治二十二年六月二十九日旨聞き届けられ、明治二十二年十二月十六日に明治天皇より神社創立の勅許が下り、『四條畷神社』の社号がくだされ、別格官幣社(主に国家の忠臣を祀る)に列格された。地元の人々は、土地、金品を寄進し、土を運び石を積んで奉仕し、立派な御社殿が完成し明治二十三年四月五日御鎮座祭が斎行された。明治天皇は、父正成公に劣らぬ所の忠節を嘉せられ、御祭神正行公には明治三十年四月六日に従二位が、追贈せられた。
 平成元年には、御本殿を始め拝殿等の修復、社務所の新築、境内地の諸施設の整備拡張を行い、平成二年十月五日には、御鎮座百年奉祝大祭が斎行された。
(「大阪神社庁第三支部ホームページ」より)



170号線脇の参道入口
大鳥居
ここから参道は550m程東に続きます。
社号標
「別格官幣社
四條畷神社」
社頭
社号標と神社入口
参道の様子
神社入口に立つ二の明神鳥居
境内へと続く石段参道
石段参道上部
境内入口
境内入口に居る構え獅子
やや上向きの整った顔つき、躍動感溢れるポーズ、流れが綺麗で複雑な尾の毛筋。建立年代不明の肉付きの良い狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
甘酒接待所
参道の様子
境内入口 三の木製伊勢鳥居
境内の様子
「桜井の別れ」像
拝殿と回廊
拝殿内の様子
流造の本殿 側面と正面

境内社:御妣神社 拝殿
御妣神社本殿
境内社:有源招魂社
境内社:楠天神社
楠公慰霊塔
神庫
大絵馬
ご神木・大楠
境内から見える四條畷市の町並み