国玉神社

泉南郡岬町深日921 (令和2年1月6日)

東経135度09分16.50秒、北緯34度18分57.85秒に鎮座。

この神社は、南海電鉄多奈川線・深日町駅の東北東400m程の辺り、深日小学校の南側に鎮座しております。

御祭神 大國主大神・賀茂別雷神

由緒
昔は「九頭大明神」と称した。創建年代は不詳だが、称徳天皇紀伊行幸の際の行宮を定めたと言われる。『続日本紀』巻第26の称徳天皇(高野天皇)の天平神護元年(765)10月26日、紀伊国からの帰路に和泉国日根郡の深日行宮に至ったとある。
神社は70有余の石籠が並び、その正面に本殿が鎮座。本殿は合祀した賀茂社のもの、深日(ふけ)は京都賀茂社の社領だったそうで、その関係で賀茂社が祀られていたのであろう。

平成祭礼データから
国玉神社は第60代醍醐天皇の御代に成った延喜式内社であり、創立年月は旧記になく詳でありません。国内神名帳に正五位下国玉神社としてあります。
境内3,045坪を有し千歳川岸の丘麓にあり昔は樹木欝蒼として深日港を望む遠くは淡路島及摂淡連峯を望み明治6年、郷社に列記され明治41年、神饌幣帛料供進社に指定せられ明治45年5月、若宮の浜山に祭祀されてありました村社賀茂神社の御祭神を相殿とし、末社でありました、八幡社、若宮八幡、戎社の三社を元国玉神社の本殿に相殿として祭祀してあります。現在の本殿は元賀茂神社の本殿を遷座してあり梁行四間桁行三間の銅葺流造にして氏子地は深日孝子一円にわたっております。
拝殿上の「大国玉神」の木の額は旧深日村の古事に依れば門厳の書であります。
深日庄は第73代堀河天皇寛治4年より第104代後柏原天皇大永年間まで京都賀茂神社の領知で元賀茂神社の隆昌繁栄に反して国玉神社は次第に衰徴し徳川時代に至っても隆昌をする事無く明治維新まで明中十五軒にて山林等を資にして祭祀・保存しておりましたものです。当下たん地にあります。
現旧蹟跡の碑は第48代称徳天皇の紀州行幸の際行宮として定め給ひし処であり、続日本紀に「天平神護元年9月(閏)10月26日庚戌遺行宮於大和河内和泉等国以欲幸紀伊甲申致和泉国日根郡深日(フケ谷朱)行宮干時西方暗瞑異常風雨紀伊国守小野朝臣小贄従此而還詔賜アシギヌ卅疋綿弐百屯」と記されてあり、「第65代花山天皇の行幸の際須臾寓宮として定め給ひし」と記されてあります。
又末社は元は小祠でありましたが、永年の風雨の為破損甚だしく神々の御神慮を恐れ、昭和40年7月10日、境内東南側に銅葺流造の社殿に遷座祭祀せしもので、当神社は称徳天皇行宮より現在まで1200余年の年月を経ております。
境内由緒書き より。

参道入口

神額

入口左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(文政13年(1830)庚寅大呂(陰暦12月)吉祥日建立)

二の鳥居

境内

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿内部

本殿


祓戸神社

戎社

五社