菅原神社

堺市堺区戎之町東2-1-38(平成24年1月7日)

東経135度28分46.12秒、北緯34度34分34.1秒に鎮座。

 この神社は

 御祭神:菅原道真公、天穂日命、野見宿祢
 祭礼日:歳旦祭・1月1日、とんど祭・1月15日、節分祭・2月3日、初午祭・2月最初の午の日、ホタル観賞会・6月中の2日間、大祓・茅の輪くぐり・6月30日、八朔祭(例大祭)・9月13日14日(ふとん太鼓の宮入)、大祓・12月31日
 境内社:戎神社、薬祖神社、稲荷神社
 由緒:今から千年以上前、節摂津の国北の庄、海船の濱に一体の木像が流れ着きました。これは、菅原道真公が配流された大宰府の地で自ら作られ、海へ放された七天神のうちのひとつと伝えられています。
  ご神体はしばらく付近の住人によって、大切に祀られていましたが、摂津の国北の庄の氏神であった、天台宗威徳山天神常楽寺(てんだいしゅういとくざんてんじんじょうらくじ)の僧徒がご神体を同寺に遷し、九九七年(長徳三年)に天神社を創建したことが菅原神社の始まりです。この時に常楽寺でお祀りしていた春日明神と山王権現こ共に祀られました。
  道真公が大宰府で亡くなられてから九十年以上後のことで、都では藤原氏一族の摂関政治が続き、中でも三人の娘を天皇に嫁がせて政治の実権を握る藤原道長の全盛時代が訪れようとしていました。
  (注)今の大阪府と兵庫県にあたる摂津の国は、古から大和、山城、河内、和泉とともに、畿内五ヶ国のひとつです。堺の名前は。摂津、河内、和泉の境になっていることに由来すると言われています。中世初期には、北の庄(摂津)、南の庄(和泉)、の二つに分けられていました。
 時代は、応仁の乱から戦国時代へ。貴族社会から武士社会への国の仕組みが大きく変化する中で、天神社は厚い道真公信仰に支えられていました。
  しかし、一五三二年(天文元年)十二月十四日、夜半に北の庄から出た火は、折からの季節風にあおられて、天神社を含む北の庄のほぼ全域にあたる四千軒を焼きつくしました。
  それから約四十年、一五七四年(天正二年)当時の神社の配置図を見ると、本社、拝殿、大梵天堂、金殿、観音堂、薬師堂、護摩堂、御影道、食堂、経堂、連歌所、塔、鐘楼、仁王門および南北の門がえがかれており、再建後、敷地と規模を拡大させていたことがうかがえます。
  また本社、大梵天堂、観音堂などの名称から、神道と仏教の建物が共存していたことが示されています。
  ここに記されている連歌所とは、ご祭神に奉納する法楽連歌を詠む建物です。中世から近世にかけて、学問、詩歌、芸能の神、道真公にちなんで、各地の天満宮や天神社では連歌の会が盛んに開かれており、菅原神社でも法楽連歌の会が行われていました。
  平穏な時代は終わり、一六一四年(慶長十九年)豊臣方と徳川方との間に大阪冬の陣、翌年には夏の陣が勃発します。その直前、豊臣方の武将、大野道犬(おおのどうけん)は、堺が徳川方の基地になるのを恐れて堺の町に火を放ち、菅原神社はまたも焼失してしまいます。
  しかし、承応元年の菅神七五〇年祭を機に再建に努め、翌年、新殿が完成、ご神体をお遷ししました。
  「元禄二年堺大絵図」には堺の町全体が詳細に描かれています。当時は「北の天神、南の開口(あぐち)」と呼ばれ、堺の町を東西に貫く大小路通の北を天神社が、南を開口神社がそれぞれ氏神として祀られていました。
  ところで、時の為政者と菅原神社の関係について、豊臣秀吉は、免税などを保障する二百二十石のご朱印を寄せ、徳川幕府もこれを引継いだと伝えられています。
 明治維新は、国政をはじめ、さまざまな分野に大きな変化をもたらしました。そのひとつが神道と仏教を分離する「神仏分離」制作でした。徳川幕府が行ってきた、神仏まざり合った宗教制度を一新して、新政府による神道国家を確立するために、神道と仏教を明確に分離する方針を示しました。
  これにより一八七二年(明治五年)、天神社は大梵天社など仏教関係を廃絶。明治という大きな時代への転機を機に、天神社を菅原神社と名称を改めて、新しい歴史を紡ぐことになりました。
  そして近隣の神社を整備し、管理体制を整えるため、一九〇七年(明治四十年)は、宿屋町の薬祖神社、翌年には、宿屋町の事代主神社、神明町の神明神社、泉北郡の附島神社、熊野町の熊野神社を境内に遷してお祀りし、戎之町の事代主神社を菅原神社の飛地境内地である戎島の恵比寿神社に遷してお祀りしました。
 戦争の世紀と呼ばれた二十世紀。なかでも第二次世界大戦は日本に大きな惨禍をもたらしました。戦争が激しさを増した昭和二十年、堺もこの年だけで五回の空襲を受けましたが、なかでも七月十日の大空襲では死者一八六〇人、被災者数七万人という甚大な被害を受けました。菅原神社も戦火により、随身門と金毘羅宮を残して建物や宝物が完全に焼失しました。
  しかし戦後復興のよりどころとして再建の声が高く、それを受けて昭和二十六年一月に菅原神社と戎神社、昭和三十年八月に薬祖神社、の三社が再建されました。幸いに焼失を逃れた金毘羅宮は、菅原神社の拝殿の一部として使われています。
  また、同じく焼失を逃れた随身門は修復保存され、一九六六年(昭和四十一年)一月二十五日に大阪府の有形文化財指定の栄誉を受けています。この随身門には、堺の武将小西行長が朝鮮から持ち帰って奉納した笠松の大木の幹も保存されています。
  そして新世紀。一六一五年(天文元年)の大阪夏の陣、第二次世界大戦など幾多の焼失を乗り越えた今、菅原神社では往時の再現をめざして復興事業が進められており、そのスタートとして、二〇〇一年(平成十三年)に稲荷神社が再建されました。
 南大阪随一の「えべっさん」として親しまれ、堺戎神社に祀られています。一六六四年(寛文四年)、現在の戎島町付近に突然島が出現。同六六年、この戎島の海中から、石像が発見され、威徳山天神常楽寺の塔中であった観月院頼弁法印(かんげついんらいべんほういん)がこれをお祀りし、戎島の近くに宮祠を造りました。その後、戎之町の事代主神社と合併し、一九五一年(昭和二六年)、菅原神社の境内に遷りました。
(「菅原神社公式サイト」より)


社頭
表参道入口に立つ明神鳥居 社号標
府指定有形文化財・楼門
1652年(慶安5年)に建立。その後、火災に遭ったが焼失を逃れた。1677年(延宝5年)に堺の鉄砲鍛冶、榎並屋勘左衛門の寄進によって仁王門が造営 されたと伝えられている。この随身門は、1966年(昭和41年)、大阪府の有形文化財に指定されている。門の左右には剣と矢を帯びた高さ1.5メートル の檜造りの坐像、随身像が守っている。
楼門境内側に置かれた「千両松幹」「傘松の幹」
参道・境内の様子
菅原神社入口に立つ明神鳥居
菅原神社を護る慶応4年生まれの狛犬
全体的には素朴な浪速系ですが、小さな流れの丸尾タイプです。
この狛犬は神社の守護、魔除けのために置かれている。口の形が、「阿吽(あうん)」を表しており、足に巻かれている綱は「浮気封じ」を意味している。「他の店に心を移さない」と解釈され、水商売繁盛にご利益があるとされている。
狛犬の拡大写真はこちらで
(慶応4年(1868)戊辰8月吉祥日建立)
鳥居脇に置かれている長徳3三年(997)奉納の水鉢
重い水鉢の四隅を天邪鬼が必死に支えています。
菅原神社拝殿
菅原神社本殿
菅原神社側面全景

境内社:薬祖神社入口 明神鳥居
薬祖神社拝殿
薬祖神社拝殿内の様子
薬祖神社本殿
本殿裏の境内・戎神社参道の様子
戎神社参道と回廊
境内社:戎神社拝殿
戎神社拝殿内の様子
戎神社拝殿内にいる彩色の綺麗な神殿狛犬
戎神社本殿
境内社:稲荷神社入口 立ち並ぶ稲荷鳥居
稲荷神社素阿殿と神使い
神牛
頭を上に向けているほうが大理石、もう1頭が御影石で作られている。道真公が丑年のお生まれであり、903年(延喜3年)2月25日の丑の日に没されたことから、全国の天満宮には牛の像が奉納されている。
御神木
社務所
常楽殿
常楽殿は、菅原神社創建時の威徳山天神常楽寺にちなんで命名された建物で、寄棟屋根の上に切妻屋根を重ねた「錣(しころ)造り」の木造建築。ご祈祷や神前 結婚式などに利用される「儀式殿」には、日本画の巨匠、菅楯彦、真人親子の合作「三十六歌仙」が飾られている。「祝詞殿」には栴檀の踏板、夫婦節の入った 檜の腰板が張られた、豪壮な造りになっている。昔の応接間にあたる「帖台の間」の壁や襖は、武家屋敷を思わせる意匠がこらされている。