華表(かひょう)神社

堺市北区宮本町57(平成24年1月7日)

東経135度31分2.83秒、北緯34度34分36.57秒に鎮座。

 この神社は堺市駅の東北東約1.5kmに鎮座しています。住宅街の中心に位置した神社ですが、御神木の大楠をはじめクロガネモチ、ムクノキ等の大木を中心に、緑が濃い涼やかな境内の佇まいでした。
 入口から朱の鳥居と石像鳥居を潜ると神門に辿り着き、境内に入ると右に手水舎が配され、正面に拝殿、その右に参集殿、拝殿奥には煌びやかな彩色の本殿が板塀内に建立されています。又、境内社が境内のあちこちに点在して祀られていました。
 因みに社名の「華表」とは、
中国で、宮殿・廟宇・陵墓の前に立てられる石柱。神社の鳥居。(「大辞泉」より)
 中国で、宮殿や墓所などの前、あるいは大路がまじわる所に立てられる標柱。漢の丁令威が死後千年たって鶴に化して帰郷し城門の華表に止まったという故事(捜神後記)で有名。(「ジャパンナレッジ」より)
 中国の伝統建築様式に用いられる標柱。概要 一般的に台座、蟠龍柱(とぐろを巻く龍)、承露盤とその上の蹲獣像で構成される。華表は建築シンボルの一種であり、すでに中国を象徴するものの一つともなっている。宮殿や陵墓へ続く参道の入り口両側に置かれ、神道柱や石望柱などとも呼ばれている。(「Feペディア」より)
という意味なのだそうです。

 御祭神:誉田別命、素盞鳴尊、宇賀之御魂命
 祭礼日:例祭・10月5日、夏祭・7月15日
 境内社:天満宮、太神社、玉屋神社、廣田神社
 由緒:社記によれば素盞鳴尊は仲哀天皇九年十二月神功皇后筑紫に凱旋あり。
 翌年 摂津国難波に至り給ひしときに鎮座あらしめ給ひ宇賀御魂命は嵯峨天皇の弘仁元年五穀成就の為め沙門空海之を勧請し後、後醍醐天皇の元享元年山城国男山若宮八幡を勧請して供料三百石を寄せられ勅願所となれりと。
 東光山薬師寺と称する神宮寺の外多門院東之坊明王院威徳院西之坊乾坊無量壽院の七僧坊ありて、栄えたりしが 織田信長に至り供料は没収せられて衰微せり。
 明治維新後の神佛分離に際し寺は廃絶し社は同五年村社に列せられる。同四十一年附近の数社を合祀せり。

 

社頭
参道入口に立つ社号標と一の鳥居
参道途中に立つ二の明神鳥居
境内入口の神門
境内の様子
参道の様子
千鳥破風・唐破風付きの入母屋造り拝殿
拝殿内の様子
流造の本殿 側面と正面
本殿階段にいる木製神殿狛犬

境内社:天満宮
境内社:太神社
境内社:玉屋神社
境内社:廣田神社
御神木・大楠
慰霊碑 日露戦役紀念碑
参集殿