御霊神社

大阪市中央区淡路町4-4-3(平成20年1月4日)

東経135度30分9.02秒、北緯34度41分3.14秒に鎮座。

 この神社は地下鉄御堂筋線・淀屋橋駅の南西約200mに鎮座しています。商業金融の中心地の鎮守様としての崇敬が篤く、この日も引きも切らず沢山の参拝者がご祈祷を受けていました。入口左には「大坂観音霊場33ヶ所めぐり」33番霊場碑や大阪北浜船場ライオンクラブ建立の「文楽座跡」碑が建ち、境内には「よくぞ残ってくれました。」と思わせる元和元年(1615)生まれのブロンズ狛犬が威容を誇って睨みをきかせています。社殿も立派で戦後の復興の勢いが感じられました。また、オフィス街の中にあって、神社の木々の緑に朱塗りの鳥居が映え、街のオアシスのような感じがしました。

 御祭神:天照大神荒魂、津布良彦神、津布良媛神、応神天皇、源正霊神
 例祭日:月1日・歳旦祭、1月10日・東宮恵美須神社例祭 、1月15日・左義長 小豆粥祭、1月17日・御弓神事 境内で奉射、2月3日・節分祭、宵の節分祭後鎮魂祭執行、6月8日・松ノ木神社例祭、6月30日・水無月大祓式、7月16日・夏祭宵宮祭 7月17日・夏祭奉幣祭 神輿渡御祭(三年に一度、堀江行宮へ渡御) 、10月16日・秋祭宵宮祭、10月17日・秋祭奉幣祭 例大祭 午後堀江行宮、12月7日・火焚祭火焚神事、12月31日・師走大祓式
 境内社:大黒社、松之木神社
 由緒:この社は古来大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靱、阿波堀、阿波座、薩摩掘及び立売掘、長堀の西部南北堀江の西武等旧攝津国津村郷の産土神として、信仰の中心になっていました。御祭神の津布良彦神、津布良媛神は旧攝津国津村郷の産土神であり、源正霊神(鎌倉権五郎景政・平安後期、源義家に使えた武将)は亀井候が邸宅内に祀っていたのを合祀しました。
 太古、大阪湾は現在より深く入りこんでおり、海辺はぬかるみ芦荻が繁茂していました。その円形の入江の口・圓江(つぶらえ)に創祀された圓神祠が創祀といわれ、嘉祥3年(850)「文徳実録」にも八十嶋祭の祭場が圓江で、そこに創祀されたのが圓神祠と記されているので、八百年代後半の創建とされています。上古天皇御即位の大嘗祭につづく八十嶋祭にも関係し、後には土地が次第に固成して村を形成しはじめ、その名も津村と転訛し、豊臣秀吉公の大阪居城と共に政治経済の中心地として発展し、諸大名が参集してその崇敬も厚く什器の寄進も相次ぎました。
 その後、石州津和野藩主亀井氏から邸地を割いて寄進され、文禄3年(1594)境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀し、圓江(現在の靱)から現在地に遷座しました。寛文年中には御霊神社と改称、元禄9年(1696)御霊大明神の称号が贈られ、宝暦3年(1753)正一位の神階を授けられました。また伏見宮家より神輿修復のご寄進があり、幕府も城代巡見社として崇敬していました。
 明治6年(1873)郷社に列し、大正2年には府社に昇格しました。
 境内に明治17年(1884)から人形浄瑠璃「御霊文楽座」がありましたが、大正15年(1926)に出火し本殿が類焼してしまいました。昭和5年(1930)には再建されましたが、昭和20年(1945)の空襲により、全て焼失してしまいました。現在の社殿は昭和32年(1957)の再興です。

 

社号標 神社入口
「大坂観音霊場33ヶ所めぐり」33番霊場碑 大阪北浜船場ライオンクラブ建立「文楽座跡」碑
境内入口にいる元和元年(1615)生まれのブロンズ狛犬
第二次大戦中の供出を免れた貴重なブロンズ狛犬です。江戸前期のブロンズは日光東照宮でも拝見してきましたが、名品が多いですね〜。神殿狛犬の形態を踏襲した造りで、吽には角が付いています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(元和元年(1615)建立)
拝殿
本殿 境内社:大黒社
境内社:松之木神社
境内に入るとすぐ右側に祀られている東宮