堀越神社

大阪市天王寺区茶臼山町1-8(平成18年1月4日)

「時の摂政聖徳太子が、太子の叔父君に当たらせられる第32代崇峻天皇の徳を偲んで、風光明媚にして長松直々たる茶臼山の地をえらばれ、四天王寺建立と同時に当社を創建されたものであります。」と由緒書きにあります。崇峻天皇と言えば蘇我馬子に暗殺された天皇だが、馬子に暗殺された天皇を聖徳太子がお祀り出来たのだろうか。四天王寺は物部守屋との、戦の勝利記念だから問題は無いはずである。聖徳太子の母は蘇我馬子の姪、間人皇后。妻は馬子の娘、刀自古郎女。当時の政界は馬子が牛耳っており、いくら太子と雖も不可能な気がします。「てめ〜、俺への当てつけか・・・・」と馬子が怒鳴りそうな気がしませんか?。勝手な想像はこの位にして、由緒正しい公式サイトより以下に。

崇峻天皇と皇后・皇子の物語。

 崇峻天皇は名を泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)と申され、欽明天皇の第12皇子であり、御母は蘇我稲目の女小姉君。587年、その英明さを以って、皇族はじめ朝廷の群臣に推されて即位。当時懸案累積の国内、国外諸問題に力をつくされ、特に戦乱で荒廃した朝鮮半島、任那の復興に心をくばられた。折しも蘇我氏の全盛時代であり、特に大臣の蘇我馬子の専横はなはだしく、帝は深く憂慮されて馬子を除こうとされたが、却って馬子の奸智にたけた反逆にあい倒れられた。
 天皇のご長男、蜂子皇子は父君の事を深く悲しまれたが、権謀うずまく大和朝廷よりも、当時としては遥かな地の果て、東北地方に安住の地を求めて、父君の霊を弔わんとされ、ひそかに大和を脱出して、北陸より海路出羽へ向われた。すなわち今日、日本三大山嶽宗教の一つたる出羽三山の開祖はこの蜂子皇子である。皇子は文字通り出羽の文化、産業の始祖として、また能除聖者、修験道の祖として出羽地方の人々の崇敬の中心となられた。蜂子皇子の墓は東北地方における唯一の皇族の墓といわれている。
 小手姫皇后もまた、夫君崇峻天皇の服喪の後、皇子の後を追って東北を目指され、そして福島県小手郷堂平に安住の地を見出され、皇后時代より天才的といわれた養蚕の技術をその地の民人達に教え伝えられた。福島県が養蚕産業の発祥地とされるのは、実にこの小手姫皇后のお陰とされるのもそのためである。

小手姫を祀った機織神社はこちら。   かわまたおりもの展示館(小手姫の像など見られます)。

福島県川俣町HP(小手姫伝説地等)

神社入り口 拝殿

時代が下って、大阪冬の陣。家康が本陣を構えた所だ。当然見晴らしが良く。大阪城が一望のもとに見渡せたのでしょう。

昭和45年7月吉日建立の浪花狛犬
茶臼山稲荷神社
寛政12年(1800)1月建立の先代様。
隅でひっそり余生を過ごされています。
歳はとっても、まだまだ逞しく、ご健在です。
境内社「太上神仙鎮宅霊符尊神」
白龍社 黒龍社

平安時代に「蟻の熊野詣」といわれるほど賑わった熊野詣は、目的の熊野三山順拝の前に、熊野権現の分霊を祀った九十九の王子社を順拝しながら、たどっていきます。京の都から船で淀川を下り、上町台地へ上陸する天満の港に「窪津王子」がありました。
ここが熊野への出発点で九十九王子の第一王子窪津王子に参拝して御祓を受けた後、熊野詣に出発したといわれています。
この「窪津王子」はその後、四天王寺の西門鳥居近くの「熊野神社」に鎮座していたと伝えられていますが、後に堀越神社に合祀され「熊野第一王子之宮」として現在に至ります。
また、熊野権現の神使は八咫烏(ヤタガラス)三本の足を持つカラスとして描かれています。日本サッカー協会のシンボルマークでお馴染みですが、神武天皇のご東征を道案内したり、その功績は数多く伝えられています。

案内板より。

堀越神社の公式サイトはこちら。