住吉神社

大阪市西淀川区野里1-15-12 (平成25年12月8日)

東経135度27分56.33秒、北緯34度42分22.88秒に鎮座。

この神社は、JR東海道本線・塚本駅と阪神電鉄・姫島駅の丁度真中辺り、要するに大坂の町中に鎮座しております。

御祭神 底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長帯比売命

永徳2年(1382年)野里川の合戦の際、戦勝祈願に足利義満が勧請したものと伝え、住吉大神宮と呼称されていたが、明治以降は住吉神社に改められている。
境内由緒書き より

参道入口

神額

参道

注連柱

拝殿

落ち着いた風格の浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(寛政11年(1799)己未8月吉日建立)

拝殿内部

本殿


淀川戎神社拝殿

淀川戎神社本殿

勝雄木稲荷神社 相殿社
金刀比羅社 源次郎稲荷社

一夜官女の祭(乙女塚)の由来
永徳二年(1382)足利三代将軍義満の創建と伝えられている、野里住吉神社の境内の片隅にある「瀧の池」の跡地に乙女塚が建てられている。それには悲しい物語りが伝えられている。
中津川に面した昔の野里は、打ち続く風水害と悪疫の流行によって悲惨な明け暮れで、近隣の村人たちは野里のことを「泣き村」とも呼んでいた。
この村を救う為には、毎年定まった日に一人の子女を神に捧げよ、との託宣があり、村を救う一念から村人の総意でこれを實行していた。
人身御供の子女は毎年1月20日三ツ時に唐櫃に入れられて神社に運ばれ放置された。
丁度7年目の行事を準備している時、一人の武士が立倚り、村人からことの詳細を聞き「神は人を救うもので人間を犠牲にすることは神の思召しではない」と乙女の身がわりに唐櫃に自ら入って神社に運ばれた。
翌朝、そこには武士の姿はなく、大きな「猅々」が深手を負い絶命していた。この武士こそ当時、武者修行中の岩見重太郎であると伝えられている。村ではこの後安泰の日々を送るようになった。これを後世に永く伝へるため、同じ形式で同じ1月20日に村の災厄除けの祭をして他に例を見ない奇祭が行われ今日に至ったものである。明治40年より2月20日に改められた。・・・・・
境内説明板 より

一夜官女の乙女塚

祭の様子