若宮八幡大神宮

大阪市城東区蒲生4-3-16(平成20年1月2日)

東経135度32分51.53秒、北緯34度41分40.99秒に鎮座。

この神社は大阪城の北東2km程の辺りに鎮座しております。嘗ては広大な社地を持つ神社だったようですが、現在は街の鎮守様といった雰囲気の神社です。別名西向き八幡様と呼ばれているように西向きに社殿が建っています。

若宮八幡大神宮は当地域の土地柄が寝屋川(古くは大和川)鯰江川の二川、また古街道東西に貫通し、低地であり地味砂土に富み、農耕 に適し、水運に於ける庶民生業の中心地として繁栄して参りました。その関係上浪速に都を定められ、御製「高殿にのぼりてみれば煙たつ民のかまどはにぎはいにけり」に示された、仁徳天皇の御遺徳をしのび、村民こぞって神祠を勧請創建せしに始まると伝えられて居ります。「摂津名所図会」によれば、蒲生とは名産に蒲穂あり、色美しく、尺長く、良質のものが出来たと記されて居ります。蒲生の地名もここから出たものでしょう。「応仁記」によれば人皇103代後土御門天皇の御宇、文明十四年八月(1482)畠山正長、畠山義就を河内守口城に攻めたる時、村民の崇敬篤く、神域広大なりし当地の神祠に、武運成就を祈願したと伝えられ「難波戦機」に依れば、大坂夏の陣(鴫野、京橋口の戦い)に於いて、佐竹義宣、当地境内に本陣を構え、戦勝を祈願したとあり・・・。その時「心なき軍兵共の為、神木たる楠の大樹は地上より伐り倒され篝火の料に用いられぬ惜むべき事なり、戦後佐竹家より矢を献納して贖罪の祈願をなす、其の矢は伝わりて、明治に至りしも十八年の洪水に社と共に流失せり、楠の根幹は其の後芽を吹き出し三百年間三本の大樹と生長し明治まで繁茂して樹下は村童の遊び場なりしが二十年頃樹勢頓に衰え三本共終に枯死せるを以って其の後に絵馬堂を建設せり、根幹は其の絵馬堂一面の大きさなりと云えば戦時伐木せし楠の如何に大なるものなりしかを知るべし、従って樹齢も他の例に推算せば、一千数百年前のものなることを認むべし」昭和十年の記録・・・。以上の如く蒲生郷一帯の守護神として、(勝運、商売繁盛、五穀豊穣、安産、家内安全、厄除を祈願し)世に蒲生の西向き八幡さまと、絶大なる信仰をあつめて参りましたことを散見されてあります。昭和十年社殿修営の大事業、並びに昭和四十五年御鎮座一五〇〇年記念参集殿御造営事業も竣工せしにより、佐竹義宣の本陣跡を表記として碑を立つるものなり。
境内由緒書より。

神社入口。

入口の石段上左右に居る浪花狛犬。拡大写真はこちら。

(天保4年(1833)8月吉日建立)

拝殿と本殿。

拝殿内部。

拝殿内の黄金色の狛犬。残念乍らお姿が良く見えません。

手水屋にお住いの鯛乗り恵比寿様。
撫で牛。天神様はいないようですが・・・。 祖霊社。

豊受稲荷。

由緒之碑