御幸森天神宮

大阪市生野区桃谷3-10-5(平成24年1月6日)

東経135度32分14.51秒、北緯34度39分25.39秒に鎮座。

 この神社はJR桃谷駅の東北東約650m、市道上新庄生野線に面して鎮座しています。
 通称、「しあわせの森」と呼ばれているそうですが、市街地の中にありながら、大樹が聳える雰囲気の良い神社でした。市道上新庄生野線から一本東の道路まで参道があり、玉垣が廻る神社の入口には木々の下に社号標、鳥居が立っています。注連柱が立つ参道を行くと正面に境内社が建ち並び、左に90度曲がると唐破風付きの豪華な拝殿と、透かし塀内に流造の優雅な本殿が建立されています。これら本殿、幣殿、拝殿、透塀は登録有形文化財だそうです。又、この社にも王仁博士が仁徳天皇ご即位を祝して詠んだ歌『難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花』の歌碑があり、日本語とハングルで案内されていました。この他にも、松平忠明公が寄進した灯明台や狛犬が3対見られます。

 御祭神:仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命
 祭礼日:1月1日・歳旦祭、1月9 10 11日・戎祭、1月15日・とんど焼き、2月3日・節分祭、4月16日・稲荷祭、7月第3土曜 日曜日・夏祭、10月15・16日・秋祭、11月・七五三参り
 境内社:御幸戎神社、稲荷神社、菅原神社
 由緒:今から1600年程前の猪飼野は猪甘津と呼ばれ難波の入江の港であり猪甘部(猪を飼育していた古代の官職。鷹甘部などと同じ)が住まいしていた所でありました。
 日本書紀仁徳天皇14年の条に「猪甘津に橋をわたす名付けて小橋という」とあります。当宮の前を流れていた百済川(旧平野川)に架けられた文献上に残る日本最古の橋がこれです。
 さて、難波に都を定められた仁徳天皇は鷹狩りの折り、また、当地の東南方(現在の東住吉区あたり)に渡来し住まいする百済の人達の様子をご見聞の為の道すがら度々当地の森にご休憩されその由縁により御幸の森と呼ばれる様になりました。天皇崩御の後、西暦406年、人々はこの森に社を建立し天皇のご神霊を奉祀し御幸の祠とも御幸宮とも称したと伝えられております。
 年代は下って西暦850年頃、この地方に疫病が流行し人々が罹病に悩まされていた折り当宮の社僧大蔵院行綱は京都五條天神社に参籠し災厄追放を祈願し、同社の御祭神、少彦名命のご神霊を当宮に勧請奉斎したところさいもの疫病も治まったといいます。なお。この頃から天皇天神社とも天神宮とも呼ばれるようになりました。
 次に玉造清水谷付近に忍坂彦命を奉祀し地主神として崇敬されていた社がありましたが大阪夏の陣の兵火に遭い消失、それを畏憚した大阪城主松平忠明は当宮にご神霊を奉遷するように指示し旧平野川中洲の地3000歩と灯明台1基を寄進されました。
 昭和43年10月1日境内の椋の木(樹齢およそ700年)5本が大阪市の保存樹に。平成12年4月28日本殿・幣殿・拝殿・透塀が国の登録有形文化財に指定されました。
 平成18年創祀1600年祭を斎行し記念事業としてご社殿のお屋根替えを致しました。
(「御幸森天神宮公式サイト」より)

社頭
社号標 入口に立つ明神鳥居
参道に立つ注連柱
参道にいる大正8年生まれの狛犬
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(大正8年(1919)7月吉日建立)
境内の様子
拝殿前、昭和5年生まれの厳つい狛犬
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(昭和5年(1930)10月吉日建立)
拝殿
拝殿内の様子
本殿

遥拝所全景
故郷の、あるいは遠くの崇敬される神様を祀っており、また、ここには仁徳天皇がお休みになられたと伝えられている「腰掛石」があります。
遥拝所社殿
境内社:御幸戎神社 拝殿
昭和27(1952)年に、戎大神を勧請奉祀し、建立されました。毎年1月9・10・11日には、商売繁盛・福徳祈願を願う戎祭が行われます。
御幸戎神社 本殿
境内社:稲荷社 入口
文政13(1830)年に伏見稲荷神社から勧請して建立されました。農耕神・穀霊神・生業守護神・医薬の神として、全国各地で祀られています。
稲荷社 社殿
境内社:菅原神社
明治18(1885)年に建立されました。菅原道真公を祀っています。猪飼野小路(現勝山北五丁目)に祀られていた社を合祀したのが始まりとされています。
灯明台
松平忠明公が寄進した灯明台です。1744年に修理された後、今日まで境内にて保存されています。
北参道
北参道にいる建立年代不明の浪速狛犬
剥落が激しく、阿の姿は相当変わってしまいました。
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