生野八坂神社

大阪市生野区生野東4-7-11 (令和2年1月7日)

東経135度32分18.32秒、北緯34度38分34.56秒に鎮座。

この神社は、JR関西本線・東部市場前駅の北北西800m程の辺り、生野東の街中に鎮座しております。

御祭神 速素盞鳴尊

由緒
旧東成郡林寺村字林に鎮座する当社の創建の起源は、『神社明細帳』(明治12年)に元禄2年(1689)己巳勧請(勧請の語より神社の創始ではなく、新たに御神霊を仰いだ年か)とあるが、根拠も残せず、始祖神を祀るべき村自体の歴史は遥かに古く、その他の説もあり不詳。
そもそも当地は、上町台地の東端に位置する舎利寺大地(我孫子丘陵)上にあり、河内湖の時代も陸地であった可能性が高く、宝永元年(1704)に大和川が改修される迄は最古のダムと言われる狭山池からから発する東除川と合流した旧大和川(現平野川)と、同じ狭山池を元とする西除川(現今川、駒川)が合流する地であり、古代の主たる交通手段が川運であったことや、飛鳥・奈良期とされる「林寺遺跡」の存在からも古代から主要な地であったと思われる。
神社前の道筋を「桑津街道」と称し、この道筋(西除川筋)には応神・仁徳期の伝承を多く残し、当村も『攝津名所図会大成』には「<速志都(はやしづ)>・・・林寺の古名なり・・・允恭天皇の寵臣、速志津彦命の居住の地・・・伝う」として同時期の允恭帝期の伝承が在する。又、古へよりこの周辺地を百済野と称し、当村も百済郡〔後世、闕(欠)郡と称され、のち消滅〕に属していた。
応永31年(1424)の『天王寺金堂舎利講記録』や文明3年(1471)の『天王寺執行政所引付』に「林地庄」とあり、室町期には当村の一部は四天王寺講の料足地や荘園であった記録が残されている。
『浪華往古図』(応永年代(1394〜1427)作説)に「林津」、天正12年(1584)と記述の『摂津国東生郡浪速総社生国玉大明神御神名記』には「林神社・・・林津邑坐」と記され、一時期、「津」として設けられた、関所的に役割を果たしていたとも推察される。
天正20年(1592)、『豊臣秀吉朱印状(知行方目録之事)』には、北の政所の所領として「はやし寺」と記され、叉、慶長19年(1614)、冬の陣に「舎利寺・林寺両村に、本多忠純・酒井出羽守兵五百餘を以て屯し・・云々」と『東成郡誌』にある。
「林寺(はやしじ)」の地名の謂れは諸説あるが、元々「林地(じ)」と称し、一時期「林津」と称していた可能性から「寺」への変更、叉、当時、寺の存在自体が見あたらない等より、当社の御祭神が神仏習合から「祇園様」と信仰され、その「祇園・精舎」と「祇陀林・寺」の関係も一考を要する。
江戸期に入り『攝津郡談』等様々な文献に、蛙岩が記述される著名な村として紹介され、目前を平野川・今川・駒川が流れ、西には猫間川が流れる当村は、素盞鳴尊を御祭神とする多くの地域と同様、川・水(交通・生活・農耕・氾濫、水難除・疫病除等)の信仰と共に水利に恵まれた村として発展を遂げ、前鳥居(現存せず)には、「文化五戌辰年九月吉日當村氏子若中」(旧由緒書)、狛犬の台座に「天保15年甲辰3月吉日」の金石文を有する。
明治期、神仏分離の影響をうけ、弥栄神社、素盞鳴尊神社と改称され、合祀令により明治41年(1908)、天王寺区の河堀稲荷神社へ合祀され、同社の御旅所となる。
しかし戦後、国家管理から離れると敬神崇祖・報本反始の念篤き全氏子の熱誠により、昭和28年(1953)に本殿・拝殿・社務所を竣成、同30年、神霊の還御を仰ぎ、同31年、「生野八坂神社」として独立、「生野の祇園様」として親しまれ、現在に至る。
由緒書き より。

神社入口

境内

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿


三寶荒神社

稲荷神社