瓜破(うりわり)天神社
大阪市平野区瓜破5-4-19(平成24年1月7日)
東経135度33分27.25秒、北緯34度35分55.58秒に鎮座。
この神社は瓜破小学校のすぐ東に鎮座しています。
玉垣で囲まれた境内の入口には「天神社」の社号標と鳥居が建立され、境内右手に手水舎と社務所、左に「日露戦役記念碑」が配され、正面に唐破風付きで大きく横に広がる拝殿、塀内に本殿が建立されています。又、社殿右には稲荷社が祀られています。
コンパクトに纏まった綺麗な神社でした。
御祭神:素盞嗚尊、菅原道真、平維盛
祭礼日:10月17日・秋季例祭
境内社:稲荷社
由緒:瓜破の歴史を記録し唯一現存する船戸録(天文元年、1736記)によれば、 孝徳天皇の大化年中(645〜649)当地に居住された高僧、船氏道昭が、
5月晦日三密の教法観念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。
道昭は朝廷に上申したところ方八丁の宮地を賜わり、この霊像を祭祀して当所の氏神と崇め奉り、西の宮又は方八丁の宮と称したのが当社の起原であると記されている。
当社の北部に牛頭天王を祀る社(祭神 素盞嗚尊、起源鎮座年月不詳)があって北の宮と言われていた。慶長年代(1596〜1614)に至り公命によって北の宮を西の宮へ 合祀した。寛永年間(1624〜1643)に耕作の都合で集団移住し西川村(旧西瓜破) を形成し、そこに氏神として祀った天満宮(祭神 菅原道真、創立鎮座年月不詳)、さらに東北部に東の宮と称した小松大明神社(祭神 平維盛)があった。この社は、寿永年間(1182〜3) 平重盛に大恩を受けた源氏の武将湯浅七郎兵衛宗光が京都守護職として赴く際、当地にて重盛の嫡子、 維盛が熊野浦にて入水の由を聞き及び追悼慰霊を営み、神領五十歩を寄進して宮居を建てたのが起原とされている。その後天和年間(1681〜1683)当地本郷地、 村民の熱意によって現今の地に勧請され氏神(小松神社)となる。
以上の各社、社領地は、特に永正より大永年間(1504〜1527)に亘る足利と細川の 攝津河内の戦乱に被害をうけたが、村民は維持、興隆に努めてきた。明治43年には公命により各社は、当天神社に合祀され、昭和時代を迎えて村民の希望によって、再び 各社に分霊鎮座された。
現在社殿は、東面し流造檜皮葺、江戸末期の修葺で、境内末社として稲荷社(祭神 倉稲魂命、創立鎮座年月不詳) がある。
社頭 |
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入口に立つ明神鳥居 |
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鳥居に掛かる額「天神社」 |
社号標 |
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境内の様子 |
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拝殿前にいる浪速狛犬
双方垂れ耳で、威厳のある良い顔つきをしています。阿吽で鬣や尾の意匠が異なるのが一工夫の跡でしょうか。
狛犬の拡大写真はこちらで |
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唐破風付き、横に広がる大きな拝殿 |
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拝殿内の様子 |
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本殿 |
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境内社:稲荷社 |
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境内社跡? |
日露戦役記念碑 |
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御神木 |
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