楯原(たてはら)神社

大阪市平野区喜連6-1-38(平成24年1月7日)

東経135度33分29.55秒、北緯34度36分35.82秒に鎮座。

 この神社は地下鉄谷町線・喜連瓜破駅から北東約500mに鎮座しています。
 参道の入り口が南と西にあり、社号標には「式内楯原神社」と記されています。私達は現在の表参道と思われる南参道から入ったのですが、社殿は西向きに建てられ、古は西参道が主たる参道だったのか?と思わされました。拝殿は千鳥破風・唐破風付きの豪華で大きな建物で、弊殿と本殿を取り囲む白塀の本殿裏中央には珍しく門が作られていました。境内社も多数祀られていますが、特に「神宝十種之宮」は日本初の十種の神宝を祀る神社だそうで、「三種の神器」しか念頭になかった私には大いなるカルチャーショックでした。又、境内の由緒書を見て、古社の変遷を知ることが出来、大変勉強になると共に、余りこういう事が詳しく書かれていない他の神社も、様々な歴史を抱えて現在に至ったのだろう…と、改めて考えさせられました。

 御祭神:武甕槌大神、大国主大神
 祭礼日:神宝十種之宮祭・4月7日、夏祭・7月5日、例祭・10月15日
 境内社:楠社、稲荷社、神宝十種之宮、媛大神遥拝所
 由緒:式内楯原神社
 当社は、社殿では崇神天皇七年の鎮座とされる古社で、延喜式内の神社である。
 いにしえは、もとの字楯原(現在の喜連西一丁目、近畿電波管理局敷地)にあったが、兵火に遇って現在の地に遷座し、桓武天皇のとき(西暦800年頃)字十五の龍王社を合祀し、境内別殿として奥の宮と称した。
 さらに元和年間(1620年頃)付近の天神社を合祀し、天神社と称するようになり、楯原の社名は別殿の奥の宮に移った。(現在の奥の宮には、十種神宝宮を摂社として遷座、日本最初の神宝で、十種の祓は大正三年内務省選定)
 このため、明治五年、式内の楯原神社は社格を得ず、併祀の天神社が村社となる状況であったが、明治四十年、神社整理を機に現在の社名に改められた。
 当社には、萬葉集にも詠われている息長家の碑が祀られている。
 また、隣接の如願寺は、当社の宮寺であったが、明治維新後分離した。
 祭神 武甕槌大神 大国主大神

式内楯原神社の由来
 楯原神社は、延喜式内の神社で、位置は旧喜連村の寺町にある。昔は字楯原にあって、建御雷命及び大国主命を祀っていたが、後兵火に羅って、今の所に遷座し 字十五の龍王社を合併し、境内の別殿に祀って、「総の宮」と称した。元和年間更に付近の天神社を合祀し後、亦菅原道真を併祀したが、俗に天満宮と呼び天神社と公称、いつしか本来の祭神は忘れられて菅原道真のみを祭神となす。楯原の社名は別殿の奥の宮に移って、龍王社の祭神、赤留姫は楯原神社の祭神と転じ、明治五年本社の天神社は社格を得なかった。これに反し別殿の楯原神社は村社に列せられて爰に全く並立の両柱となった。然るに神社合併の議おこり、明治四十年九月村社楯原神社、村社東西神社(旧東喜連村にあり、素盞嗚尊、忍坂大中姫命合祀)及び無格社春日神社(旧東喜連村にあり、春日大神)を天神社に合祀した。
 かっては由緒ある楯原神社の社名を没するを以って同四十三年十二月天神の東西春日の三社を楯原神社に合祀せられたるものが即ち楯原神社である。是より先明治四十年一月、神饌幣帛科供進社に指定せらる。境内は四百六坪、本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、絵馬所、社務所などを有し、氏地は喜連全域であったが、昭和二十六年東喜連氏子一同の要望に依り東西春日の両社を同年八月七日元の東喜連に分離移転した。同時に地域氏子も分離した。
祭禮 夏祭 七月五日、例祭 十月十五日



南参道入口
社号標「式内楯原神社」 南参道入口に立つ明神鳥居
境内の様子
拝殿前にいる貫禄の浪速狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで
千鳥破風・唐破風付きの豪華で大きな拝殿
拝殿内の様子
弊殿と本殿
本殿裏の塀中央に作られた珍しい門

媛大神遥拝所 境内社:楠社
境内社:稲荷社
境内社:神宝十種之宮
神宝十種宮略記
配祀神
布留御魂大神(十種神宝)は天璽瑞宝十種に籠る霊妙なる御霊成れます。
瑞宝十種は、謂ゆる沖津鏡一つ、辺都鏡一つ、八握生剱一つ、生玉一つ、死反玉一つ、道反玉一つ、蛇比礼一つ、蜂比礼一つ、品物比礼一つにして神代の昔、饒速日命が天降り給う時、天つ神の詔をもって「若し痛む処あらば、十種神宝をして甲乙丙丁戌己庚辛壬癸一二三四五六七八九十と謂いて布留部由良止布瑠部、此く為さば死人も生き反えらん」と教え諭して授け給いし霊威高き神宝なり。
其の御子、宇摩志摩治命は神宝を天皇に奉り、韴霊の御前に蔵めて、永く宮中に奉斎せられたが、崇神天皇の御代に韴霊と共に石神布留の高庭に鎮り給うた。
付記
十種瑞津の宝の当地に鎮座ましますに至る由来は其の昔永禄年間室町幕府の末期足利義昭が織田信長に奉ぜられて入京、そして永禄十一年十月十八日征夷大将軍に任ぜられ室町幕府第十五代将軍となった。
然れどもすぐにその権力はなく信長の力にたよらねば何事も出来なかった。しかし義昭は将軍となるや大和の法隆寺、石神神宮、山城の大徳寺、紀州の根来寺、摂州の本願寺など畿内の主な社寺や有力な大名に呼びかけて味方につけようとした為に、当然信長と衝突した。かくするうちに天正元年義昭は公然と武田、浅井、朝倉、本願寺などと手を組み信長討伐にのりだした。
しかし信長はたちまち反撃に出てそれをおさえた。それ時、天正元年八月石上神宮も織田の武将達の焼打にあひ財宝はうばわれ十種瑞津神宝は持ち去られた。その後、天正十年信長は、本能寺に明智光秀に討れ、光秀又、豊富秀吉の為、山崎合戦に破れ天正十三年秀吉天下を取るに至る。
石上神宮の神宝、十種瑞津の神宝は心ある士に守られて保護されていた。秀吉その士に十種瑞津神宝の話を聞き餘りの有難さと現実の因果におどろき十種瑞津の神宝を生魂の森深く永久に鎮まりませと納め奉った。時は流れ徳川幕府も終わりの討幕運動が大詰にはいった慶應三年八月下旬、名古屋地方に伊勢神宮のお札が降ったとのうわさをきっかけに老若男女が気違いのように踊り狂い乱舞は日に夜につづき、はじめは京都、大阪、大津など、近畿地方に行なわれ、次第に日本全国に及んだ。鳴物入りで「ええじゃないか」のはやしをつけた卑俗な唄をうたいながら踊り歩いた。
これはかつての「おかげまいり」にみられた宗教的興奮が倒幕直前の政情不安に乗じて形をかえた。「世なほし」騒動の要素も交っており気にくわぬ地主や富豪の家に踊り込み暴れ廻った。そして暴徒は社寺佛閣にまで押しかけて荒れ狂ひ、生魂の宮もおそれて暴徒のほしいままにされた。
其の時に、神宝瑞津の宝は、二度目の難を受け暴徒に持ち去られて、生魂の森よりお姿が消えた。
其の後、神宝は町の古道具やの店頭にさらされていたのを喜連に住む小林某なる人により発見され、買いもとめてこれを家にて祭れり。後小林氏当地を去るにあたり浅井氏に預け、浅井氏又、この地の旧家増池氏に預けられしが、増池氏敬崇の志厚く永代御灯明料共に神宝を式内楯原神社に奉納と社殿を建立し斎き祭るに至れり。
後に室戸台風にあひ、社殿はたおれ長らく拝殿に祭り居りしも、今里の庄司善雄氏(石上神宮守護職の子孫)が尋ね来り神宝を石上神宮にかえしてくれる様頼まれしもこの尊き神宝をかえさづにあたらしい社殿を建立してこれを末永く斎き祭るに至れり。
河内国河上の哮峯に天降座りしより幾千年、神宝はよき地を得て鎮まる処を得るなり。
「之文歴史参照 庄司氏談話より」
磐座? 大絵馬
御神木
西参道入口
社頭