比売許曽(ひめこそ)神社

大阪市東成区東小橋3-8-14(平成24年1月6日)

東経135度32分13.14秒、北緯34度39分49.62秒に鎮座。

 この神社は鶴橋駅の東北東約400mに鎮座しています。
 神社の入口には鳥居・社号標が立ち、狛犬がいます。住宅地の中で杜はありませんが、入口右手には大きな御神木が聳え、その下に社務所が配されています。左手には山車庫があり、東大寺南大門型狛犬が護る千鳥破風・唐破風付きの拝殿の後に流造の本殿が建立されています。又、境内社の白玉稲荷神社にも可愛い狛犬がいました。
 古には壮大な社地と荘厳な社殿を持つ神社だったようですが、現在はかなり縮小されています。

 御祭神:下照比売命、速素盞嗚命、味鋤高彦根命、大小橋命、大鷦鷯命、橘豊日命
 祭礼日:春祭・4月中旬、夏祭・7月第三土 日曜日、秋祭・10月16日、月次祭・毎月1日15日
 境内社:白玉稲荷神社
 由緒:当神社は其の創建極めて古く 人皇第11代垂仁天皇の御代愛来目山(大阪市天王寺区小橋東町一帯の丘陵地)に下照比賣命を祀り 以て起源を為すと伝う。
 其の後第23代顕宗天皇の御宇社殿の御造営あり、又第33代推古天皇15年春正月12日正遷宮の際天皇行幸あらせ給う。
 第56代清和天皇貞観元年に 神階従四位下に進め給ひき。即ち 延喜式内名神大社にして 実に荘厳なる社殿なりしも 数度の兵乱により改築毎に小社となり 遂に天正年間織田氏の石山本願寺攻めの兵火に遭い 辛くも難を避けて 摂社なる牛頭天王社に移りぬ。現今の社地之なり。
 昭和3年御大典を記念して社殿社務所を改築す。昭和12年1月12日氏子有志より神輿の奉納あり。その年より古儀を復興し夏祭に神輿渡御を行う。其の巡幸誠に盛大なり。
(「神社略記」より)

 比売許曽神社は、大阪市東成区にある神社である。旧社格は村社。式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社(下照比売社)」の論社の一社である(もう一社は高津宮摂社・比売古曽神社)。
 江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社であった。
 『古事記』には、新羅から来た阿加流比売神が難波の比売碁曽の社に坐すと記されており、『日本書紀』にも同様の記述がある。ただし、『延喜式神名帳』では下照比売社が比売許曽神社であると記し、阿加流比売命を祀る赤留比売神社は住吉郡に記している。
 垂仁天皇2年7月、愛来目山(現在の天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比売命を祀り、「高津天神」と称したことに始まると伝えられる。顕宗天皇の時代に社殿が造営された。延喜式神名帳では名神大社に列し、新嘗・相嘗の奉幣に預ると記載されている。当社の境外末社・産湯稲荷神社がある地が旧鎮座地と推定されている。
 天正年間、織田信長の石山本願寺攻めの兵火に遭って社殿を焼失した。社伝では、神体は焼失を免れ、摂社であった現在地の牛頭天王社内に遷座したと伝えているが、事実かどうかは不詳である。
 天正以後は荒廃し、所在が不明となっていたが、天明8年(1788年)、ある者が比売許曽神社の旧記神宝を発見したと唱え、それに基づいて比売許曽神社の縁起が編纂され、牛頭天王社を式内・比売許曽神社に当て、下照比売命を祀ってこれを主祭神とした。『大阪府神社史資料』では、その縁起は「信ずべきものにあらず」と記している。
 明治5年に村社に列した。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

社頭
神社入口
社号標
「式内比売許曽神社」
入口に立つ明神鳥居
入口に居る建立年代不明の浪速狛犬
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境内の様子
拝殿前、昭和18年生まれの東大寺南大門型狛犬
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(昭和18年(1943)8月吉日建立)
拝殿
拝殿内の様子
本殿

境内社・白玉稲荷神社
白玉稲荷神社を護る建立年代不明の力強い狛犬
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御神木
山車庫