阿部野神社

阿倍野区北畠3-7-20 (平成18年1月4日)

この神社の鎮座地は、北畠顕家が足利軍と激戦した古戦場。足利軍は一万八千に対し、顕家軍は僅かに三千。多勢に無勢、この地で亡くなったという。その時顕家公、弱冠21歳であった。その後久しく忘れ去られていたが、明治になって南朝の忠臣としてこの地に北畠親房公と北畠顕家公を御祭神として創建された神社。楠木正成を祀っている湊川神社といきさつが似ているかも知れません。

追記、湊川神社といきさつが似ているどころでは有りません。同じでした。建武中興十五社の一つで明治15年の創建です。

西側参道。締め柱に『大日本は神国なり』
と書いてあります。
神社入り口
由緒
 北畠親房公は殊に後醍醐天皇のご信任が厚く、「後の三房」と称された一人である。後醍醐天皇の吉野御遷幸のあとは、吉野朝の中心人物として伊勢、あるいは常陸において、京都回復の計画を進められた。後醍醐天皇の崩御後、後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で『神皇正統記』を著した。 後、吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、三后に准じられ多が、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられた。御年六十二歳であった。  北畠顕家公は親房公の御長子で、元弘三年(一三三三)八月陸奥の守に任じられ、同十年義良親王を奉じて陸奥へ下向され、奥羽はたちまちにその威風に靡いた。延元元年、足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させたが、延元三年(一三三八)京都回復のため再度上洛して五月二十二日、二十一歳で戦没された。現在の神社の鎮座地は顕家公が足利軍と戦った古戦場で、明治十五年一月阿部野神社と号して創立、同二十三年三月鎮座祭が斎行され、別格官幣社に列せられた。現社殿は昭和四十三年に再建されたものである。
境内由緒書きより。
境内入り口 手水舎にお住いの狛犬。
詩歌の道入り口 北畠顕家公の銅像
拝殿 本殿

御魂振之宮(奥宮)

昭和二十年三月十四日、阿部野神社は大東亜戦争の戦火により灰燼に帰しました。戦後の復興は同年十二年に開始され、御祭神は仮社殿に奉祀されました。同時にこの御魂振之宮の神々もお祀りされ、復興成就の祈願がなされ、その不思議なる霊験あらたかな御深慮によって幾多の試練を乗り越え、昭和四十三年十一月四日に社殿が竣工致しました。毎月九日には御魂振之宮祭を執り行い、御深慮に対する報恩感謝の祭典をご奉仕しております。お社の名前の由来はその信仰は本来より持っておられます素晴らしい魂を奮い起こし、願い達成に力強い息吹を与えるものと存じます。戦後、当神社の三代にわたる宮司と氏子・崇敬者が社殿の復興を念じ続けられ、その願いを果たされました。それ故にこのお宮を「一願一遂の宮」とも呼ばれています。

旗上稲荷社

我国最古の文献の一つとされている山城国風土記の逸文には、稲荷を「伊奈利」と誌しています。イナリとはイネナリ、イネニナルのつづまったもので、我々日本人の生活の根源である稲によって天地の霊徳を象徴した古語とされています。当社では豊受稲荷大明神、高倉大明神、白鷹大明神の御霊験ある三柱の神様を旗上稲荷大神と総称してお祀りしております。尚、旗上げとは命をかけて精進・努力する証を表しています。

阿部野神社の公式サイトはこちら。