大枝神社

守口市大枝東町2-23(平成24年1月5日)

東経135度34分16.23秒、北緯34度43分54.47秒に鎮座。

 この神社は守口市駅の東約300mに鎮座しています。入口には社号標と鳥居が立ち、周囲は低い生け垣となっています。市街地の中の神社ですが、緑が豊かです。境内に入ると真っ直ぐ北に延びた参道奥に文化2年生まれの狛犬が護る入母屋造りの拝殿と、塀内に本殿が建立されています。また、社殿左には境内社が祀られています。

 御祭神:誉田別神(応神天皇)
 祭礼日:夏祭・7月、例祭・10月
 境内社:高吉稲荷神社、東照宮
 由緒:一、祭神
 皇紀八百五拾二年頃より熊襲九州に拠りて朝命に服さず仲哀天皇征討の軍を進め給いしが戦い半ばにして崩じ給う。
 尚熊襲の後には、新羅のある事明らかなるに及び、神功皇后は諒闇中、且つ御胎中にも拘らず凜として男装、新羅御計略に御進発あり、やがて乱治まり遼啓の後、皇紀八百六拾年十二月十三日筑紫にて誉田別皇子を産み給う。
 皇子は幼少より才智優れ、慈愛殊の他深く御即位御在位御在位四拾二年、其の間御仁政をなし給い、弓月君。王仁・阿知使主等半島より帰化する者多く文物続々伝承し我国文化の発展に寄与する所大なりき。
 皇子は百一歳の御長寿をなし給い、長寿神・方位除宮又文武の神として崇められる由以なり。
二、創建
年代不詳なるも境内に現存する石造物等より類推して現在より三百年と判断さる。
石造物は左記の通りなり。
(一)小燈籠・元禄十六年 皇紀二千三百六十三年 第百十三代 東山天皇時代
(二)石鳥居・正徳三年九月 皇紀二千三百七十三年 第百十四代 中御門天皇時代
(三)高麗狛燈・文化二年 皇紀二千四百六十五年 第百十九代 光格天皇時代
(四)大常夜塔・文化十年 皇紀二千四百七十三年 第百十九代 光格天皇時代
(五)中燈籠・文政八年九月 皇紀二千三百八十五年 第百二十代 仁孝天皇時代
尚境内の老松・楠・榎等の樹木によりても、その歴年の齢は十分立証さるるものなり。
三、境域
 古老の言によれば明治初年項の境域は周囲一体篠竹繁茂し、老樹の根部洞穴は狐狸の棲所となり昼尚暗く鬼気迫る感ありぬ。又社殿は頗る簡素にして、ようやく神社の形態を留むるに過ぎざりしものなりと言う。
四、神社護持の経緯
 神社護持につきましては創建当初より氏子の敬神の念により維持し来にたるは勿論なるも、一時は宮座制を設け交互に奉仕し又一時は数名の氏子総代により祭典の執行及び維持奉賛に努む。現在は神社規則を制定し、約二千名に及ぶ奉賛会員の護持により益々繁栄の一途を辿るつつあり。
五、社殿改築
 氏子の敬神の念益々高揚さるに当り、社殿改築の計画を進め、昭和二年十月竣工、同月盛大なる正遷座宮祭を執行す。現本殿これなり。
六、奉賛会の結成
 昭和二十年八月大東亜戦争の終結、敗戦後の占領政策として國家神教の全面禁止を受け、為に神社の維持は大いなる支障を来たししも、社殿、絵馬堂の老朽・老松の枯死等荒廃益々加うるに及び、之を黙視するに忍びず、有志相計り多数の氏子の協賛を得て奉賛会を結成、昭和二十九年九月五日大枝神社奉賛会発念式を盛大に挙行、ここに神社復興の第一歩を進めたり。

社頭
明神鳥居
社号標 鳥居に掛かる額
参道・境内の様子
拝殿前、文化2年生まれの狛犬
吽に角がある、姿勢の綺麗な浪速狛犬です。剥落が始まっているのが残念です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(文化2年(1805)乙丑秋9月建立)
拝殿
本殿

境内社:高吉稲荷神社
境内社:東照宮
ご神木・大楠
ご神木・大楠