水無瀬神宮

三島郡島本町広瀬3丁目10-24(平成24年1月4日)

東経135度40分33.64秒、北緯34度52分53.81秒に鎮座。

 この神社は淀川の右岸近く、水無瀬駅の北東約1kmに鎮座しています。
 官幣大社水無瀬神宮の社号標は67号線脇に立ち、東に約200m程行くと神社の入口となります。入口は靖国鳥居、灯籠、社号標などが立ち、右は駐車場となっています。私達の前をポリ容器を持った叔父さんが何組か行くので、「あ〜、此処にも御名水が湧くんだ。」と思いながら境内に入ると、案の定左手の手水舎に名水「離宮の水」案内があり、引きも切らずに名水を戴く方達が訪れていました。又、神門には「石川五右衛門の手形」という案内があり、思わぬところで五右衛門の足跡と出会いました。
 広い境内に入ると右手には境内社が、すぐ左には手水舎、左奥には豊臣秀吉が福島正則に造営を命じて寄進した「客殿」が配され、右奥に入母屋造りの豪壮な拝殿、回廊内に本殿が建立されています。
 戦前は官幣大社、戦後は別表神社となった格式の高い神社ですが、落ち着いた雰囲気で清々しく伸びやかな気持ちになれる神社でした。

 御祭神:後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇
 祭礼日:例祭・12月7日、後鳥羽天皇祭・4月4日、土御門天皇祭・11月13日、順徳天皇祭・10月14日、秋季講社大祭・10第三日曜日、月次祭・毎月1日、22日、松囃神事・1月3日夕刻
 境内社:春日神社、柿本神社、星阪神社、稲荷神社
 由緒:當宮は御祭神後鳥羽上皇が御造営になった水無瀬離宮の跡で、往時は桜、山吹、菊の名所として知られ、上皇も屡々行幸、歌合せ、蹴鞠、狩猟、刀剣鍛作等も行われた。然るに承久の変により、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遷御、それゞの地で崩御。後鳥羽上皇は崩御になる前、この離宮を管してひたすらその還幸の日をお待ちしていた水無瀬信成親成父子に、左右の御手掌を捺した御置文を下され、永く後生の菩提を弔うべく仰せ下されたので、この離宮跡に聖廟を建て、上皇の御影を奉安して、御慰霊申し上げた。
 世に「水無瀬御影堂」と称し、明治の初年迄仏式混淆の行事が行われていたが、明治6年改めて三上皇の合祀、官幣中社に列せられ、昭和14年官幣大社に昇格、神宮号を賜った。
 戦後は神社本庁所属の別表神社として今日に至る。



 

社号標
「官幣大社水無瀬神宮」
一般道と共用の参道
神社入口
靖国鳥居 社号標
参道の様子
境内入口
神門
大阪府指定重要文化財、桃山時代(1592年〜1596年)、薬医門造。
境内の様子
手水舎と名水「離宮の水」
入母屋造りの豪壮な拝殿
拝殿内の様子
本殿 側面と正面
京都御所の旧内侍所の旧材を用いて寛永年間に移築したものです。
境内社:稲荷神社 境内社:星阪神社
境内社:柿本神社 境内社:春日神社
豊臣秀吉が福島正則に造営を命じて寄進した 重要文化財・客殿
桃山時代、桁行11.8m、梁間10.9m、一重、入母屋造、桟瓦葺
ご神木
都忘れの菊