旧府(ふるふ)神社

和泉市尾井町2-3-41 (令和2年1月5日)

東経135度26分42.09秒、北緯34度30分11.82秒に鎮座。

この神社は、JR阪和線・北信太駅の南250m程の辺り、尾井町の街中に鎮座しております。又、信太森神社の境外社となっております。

御祭神 武速素戔嗚大神

由緒
平成17年の拝殿新築工事の際に発見された江戸時代の棟札には、墨書銘で「氏神牛頭天皇」とあり、「氏神」とは、尾井町(信田郷尾井村)の氏神様であることを意味し、「牛頭天皇」とは、印度の祇園精舎の守護神で、日本では素戔嗚神と習合し、京都祇園の八坂神社などと同様に、古くから当社における防疫の神様(人々の病気や災いを取り除く神様)としての信仰があったことを示すものです。元々、当社は「牛頭天王社」とも称されていたようですが、この度の貴重な棟札の発見は、それを実証したものともいえます。

創立年代は不詳ですが、社号の「舊府(ふるふ)」の由来には、神功皇后の行宮所「小竹宮(しののみや)」に由来するという説と、和泉国府が当社地から現府中町に移管した「新国府」に対して旧国府跡「旧府(旧府神社とも記す)」とする説があります。
前者は、「日本書紀」巻第九、神功皇后摂政元年二月の記事にある「小竹宮」と「小竹の祝(しののはふり)」の「小竹(しの)」を、ここ「信太(しのだ)の旧表記が「小竹田(しのだ)」であることに関連させたと思われる説で、南の伯太神社、泉井上神社にも一連の皇后巡行に関する社伝がありますが、この『日本書紀』の記事では、「皇后南詣紀伊国」という文脈から「小竹宮」や「小竹の祝」は、実際には更に南下した和歌山県(日高地方や那賀郡志野など)とする説もあります。
後者は、和泉国府跡地に対しての「旧府」とするよりも厳密には、奈良時代、霊亀2年(716)和泉国が成立する以前に、河内国の一部として和泉の監(げん)(大鳥郡、和泉郡、日根郡)の三郡の特別行政管理地域。もしくはその三郡管理に加え、元正天皇の離宮であった珍努宮(ちぬのみや)(和泉宮ともいい、同じ信太郷内の上町遺跡がその跡地といわれる)をも管理、警衛するための役所)が置かれ、現府中町御舘森(みたちもり)が、和泉監衙(いずみのげんが)(役所)跡地と推定されているので、府中町に移転するよりも以前の和泉監衙か、それに相当する役所の跡地としての「旧府」という意味があるものと思われます。一方で府中町の和泉監衙は、天平12年(742)和泉監(三郡)が再び河内国に吸収された際に一旦廃止され、天平宝字元年(757)今度は三郡が和泉国として河内国から分離成立後、かっての和泉監の運営役割をその場で和泉国府へと引き継がれたものと考えられます。どちらに致しましても、当社が創建当初より古代国家の「宮」や「府」として政治まつりごと)を司る要所の鎮守社であること、少なくとも千数百年以上の歴史を有する古社であることを語るものであります。
また後生の皇室や貴族が、和泉国府や紀伊国、熊野詣でなどに赴く際、いわゆる信太の森(当社や葛葉稲荷社を含め、泉大津市北東部に広がっていた楠の森。泉北郡の歌枕ともなる)を縦貫、通過するための旧街道付近に位置することからも、氏子村のみならず、行き交う人々の崇敬も篤いものであったといえるでしょう。平安時代、官舎や延喜式内社に列格、神階正五位を授かっていた(『三代実録 』)ことは、その当社の広く、あらたかな霊験を裏付けているものです。旧社格は村社です。
由緒書き より。

参道入口

参道

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(明治15年(1882)11月建立)

鳥居

拝殿

本殿


白狐化石。葛の葉物語で追われた一匹の白狐が逃げる途中この石の後にかくれたといい、或はこの石に化したともいわれている。