誉田(こんだ)八幡宮

羽曳野市誉田3-2-8(平成20年1月3日)

東経135度36分51.68秒、北緯34度33分19.4秒に鎮座。

 この神社は応神陵古墳のすぐ南に鎮座しています。現在の正門・東門から入ると右側に社務所、左が公園となっている広い駐車場で、鳥居を潜ると境内となります。広々と明るい境内奥には目を見張るような荘厳な割拝殿が建ち、その奥に中門、本殿と続きます。割拝殿前には右近の橘、左近の桜が植えられ、参道脇には左に南大門、絵馬堂、右に姫待稲荷社、恵比寿社、神馬、などが点在しています。割拝殿右手奥には式内社・当宗神社が祀られ、尚も進むと最奥にこの社縁の応神天皇陵が築かれています。
 この社への参拝は二度目となりますが、前回は平日の早朝で、その神域の清々しさ、静寂に心打たれましたが、今回はお正月という事もあり、大勢の参拝者で賑わう、また違った雰囲気の神社の姿を味わうことが出来ました。

 御祭神:誉田別命(応神天皇)
 祭例日:1月元旦・歳旦祭、1月2日・安産祈願祭、1月3日・厄除交通安全祈願祭、1月9日・えびす祭、1月15日・とんど祭、2月節分当日・厄除祈願大祭・御湯奉納神事、4月1日・姫待稲荷祭、5月8日・夏祭(藤祭り)舞楽・神楽奉納・包丁式奉納・武道奉納、9月14日・秋季大祭宵宮祭、9月15日・秋季大会(みこし渡御・応神天皇陵へ)神楽奉納・献茶奉納、11月1日〜30日・七五三詣り、12月31日・除夜祭、毎月1日・15日・月並祭
 境内社:当宗神社、姫待稲荷社、恵比寿社、安産社
 由緒:旧社格は府社です。社伝では、「欽明天皇の命により、応神天皇陵の前に社殿を建立したのに始まるとしており、そこから「日本最古の八幡宮」といわれています。永承6年(1051)、元の鎮座地から約約100mほど南の現在地に遷座しました。
 八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けてきました。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されていましたが、享徳3年(1454)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃し、後、河内国を支配下に置いた織田信長により、社領を全て奪われた時期もあります。
 その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し社殿を再建しましたが、天正14年(1586)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ないましたが、拝殿の建造中に大坂夏の陣にとり豊臣氏が滅亡し、建物の内部が未完成のままとなっています。その後、江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行ないました。
 江戸時代には南大門神宮寺として長野山護国寺がありましたが、明治初年の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残っています。
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境内の様子
参道途中の平成生まれの狛犬
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拝殿前の 右近の橘、左近の桜

大きく荘厳な割拝殿
 入母屋本瓦葺で間口十一間、奥行三間の細長い割拝殿の形式で建立されています。正面中央部が拝所で、向拝部分は唐破風造り・蛇腹天井となっています。この建物は、慶長11年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐且元を任じて再建させたものですが、完成直前に大阪の役(冬の陣、夏の陣)が勃発したため八割方でき上がったまま放置されていました。その後、徳川家光が再建工事を続行して寛永年間の初期に竣工したものと考えられています。
 徳川家によって最後の仕上げがなされ、三ツ葉葵の定紋が付けられています。
割拝殿屋根上の瓦材狛犬
割拝殿唐破風下の鳳凰と柱を囓る邪鬼?狛犬?
割拝殿挙鼻の中国風人物彫刻
割拝殿木鼻の龍と狛犬
中門でのご祈祷の様子
本殿左右から
境内社:姫待稲荷社 境内社:恵比寿社
境内社:当宗神社
朝鮮国王奉納灯篭 多宝塔
応神天皇陵遠景
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放生橋
応神天皇陵入口
南大門
 現在、誉田八幡宮の正門は旧高野街道(京街道)に面している東門ですが、この南の出入口にある切妻造の四脚門は、江戸時代にこの社の神宮寺であった長野山護国寺の門でした。この門も拝殿と同様豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものですが、大阪の役(冬の陣、夏の陣)で豊臣氏が滅亡した後、徳川家によって寛永年間初期に最後の仕上げが行なわれたので、切妻部分に徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられています。
南大門の木鼻、狛犬と象
南大門妻の彫刻
ここでも狛犬が柱を囓っています。
南大門屋根にいた瓦材狛犬5体
5体それぞれが表情・姿態を変えてあり、職人の意地と工夫の跡が見られます。
今年はネズミ年
絵馬堂内には可愛いネズミの置物が沢山飾られていました。