志貴県主(しきあがたぬし)神社

藤井寺市惣社1-6-23(平成24年1月8日)

東経135度37分16.24秒、北緯34度34分23.3秒に鎮座。

 この神社は允恭天皇陵の北北東約200mに鎮座しています。入口には朱色の両部鳥居、「式内志貴県主神社」と記された社号標と「河内国府址」碑が立っています。境内に入ると右に手水舎が配され、参道途中と拝殿前に狛犬がいます。春日造りの本殿は白塀内に建立され、此処にも二対の狛犬が置かれています。境内社としては、式下大神が祀られていました。

 御祭神:神八井耳命、天照大神、春日大神、武甕槌命、天児屋根命、比淘蜷_、住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)、神功皇后
 祭礼日:10月9日
 境内社:式下大神
 由緒:この神社は、河内古市より国府に至る南北約五粁に亘って連なる洪積層の「国府、古市台地」の北端に鎮座する延喜式内社(延喜式に記されている古社)である。
 祭神は神武天皇の長子と伝えられる神八井耳命(綏靖天皇の兄に当る)を主神とし、天照大神、春日大神、武甕槌命、天児屋根命、比淘蜷_、表筒男命と中筒男命と底筒男命のいわゆる住吉三神と神功皇后の各神を合祀している河内でも由緒ある神社であった。
 大和時代初期のころ、柏原付近から道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は、大和朝廷の直轄地として「河内の志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は神武の長子、神八井耳命を始祖とする志貴県主及びその同族である志貴首であったため、これらの豪族たちが本貴地に祖神を祭る氏神として創建したものが、この神社であったと考えられる。
 三代実録の清和天皇の貞観四年(862)二月の記録によると、「河内国志紀郡の人、外従五位下、行木工助(木工寮の次官)兼右大臣(藤原基経)家令(支配人)志貴県主福依ら三人に姓として、宿祢を賜い、即ち本居(本籍地)を改め、左京職(平安京の左京)に隷す。
 志貴宿祢は神八井耳命の後(子孫)、多朝臣と同じ祖なり。」
 という内容が記されており、平安初期の八六二年の二月に本籍を志貴郡から平安京の左京に転じたことが判るのである。
 その後、村上天皇の天暦年間(950ごろ)諸国の所経費を節減するために設けられた、惣社の制により、各国々の国府(国を治める役所)に最寄りの有名社を「惣社」に充当して、その国内の有名祭神を一か所に集めて祭祀されることになったため、この神社を「河内の惣社の宮」と呼称することになり、近隣の集落をも惣社と称するようになった。
 例祭は十月九日で、明治五年(1872)に村社の扱いを受け本殿、拝殿を再建し現在に至っている。

社頭
入口に立つ両部鳥居 社号標
「式内志貴県主神社」
「河内国府址」碑
参道の様子
参道途中にいる平成6年生まれの岡崎現代型狛犬
(平成6年(1994)2月建立)
境内の様子
拝殿前、文化12年生まれの浪速狛犬
吽には角があり、やや太め、重厚な感じがする良い狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(文化12年(1815)乙亥7月吉日建立)
向拝のない入母屋造りの拝殿
白塀の中、春日造りの本殿
塀外から、カメラだけを頭上に揚げての撮影なので、本殿縁に狛犬がいるのが分かりませんでした。残念!

境内社:式下大神