護王神社
宇佐市南宇佐(平成20年7月23日)
この神社は宇佐神宮の末社で、和気清麿公が御神教を受けた旧蹟の大尾山の山腹に鎮座しています。宇佐神宮からは頓宮から東に参道が続いていますが、間に一般道が通っていて境内と言うよりは境外というに相応しく、改めて宇佐神宮の広大さを実感できる場所に鎮座しています。
狛犬の居る入口からは大尾神社との共通の石段が参道となっており、自然石の大きな灯籠や鳥居などが建っていますが、この旧跡を訪れる人は稀の様で石段や社地には雑草が茂っていました。石段の参道が終わった辺りから右に曲がると、左側に小道が付けられそこが神社への入口となりますが分かりづらく、地理を知っている者でないと中々参拝が出来にくい社かもしれません。
入口に立つとすぐ近くに鳥居が建ち、奥に神門と透かし塀が見えます。神門の扉は半分だけ開けられ社殿前での参拝も可能です。
御祭神:和気清麿朝臣命
祭典日:4月4日
由緒:称徳天皇の御代・神護景雲3年(769)に、太宰主神中臣習宜阿曽麻呂という者が、太政大臣禅師から法王の位にのぼった弓削道鏡に媚びへつらって、宇佐八幡の御神託であると嘘をいい道鏡をして帝位に即かせるならば天平は泰平であると奏上しました。
天皇は、宇佐神宮を深く御崇拝になっており、直ぐに和気清麿公に御神教を給わってくるように仰せられました。公は出発に際して、
西の海たつ白波の上にして なにすごすらんかりのこの世を
の歌を作られましたが、これは、道鏡が天位に着いたら、吾々は臣として何の面目があらうか、という固い決心の程を示されたものです。だからこそ、「我が国は世の中がはじまってこの方、まだ臣下が天子の位に座ったことはない。君の座には必ず皇族から立てなければならぬ。無道の者は早く一帰せよ」という宇佐八幡大神の神教を御伝えして、弓削道鏡の非望を挫くことが出来たのです。
ともあれ、清麿公は都を立って10日余りの旅程で宇佐神宮に着き、斎戒沐浴して神殿にぬかづき、神護景雲3年(769)7月11日御神勅を頂いたのです。そこで八幡大神託宜奏記二通を作り、一通は神宮に納め、一通を陛下へ御報告するものにして、同月の21日に都に帰り着き御所へ上奏、さらに道鏡へも報告しました。このとき清麿公は37歳でした。
道鏡は大いに怒って、清麿公の名を別部穢麿(けがしまろ)といいひざの裏側のくぼんだ部分の筋を切って大隈ノ国へ流布し、清麿公の姉である法均は名を別部狭虫(わけべいせまむし)と改めさせられ備後へ流罪にされました。公は、途中大神の御守護か膽駒山の麓で道鏡の刺客からのがれ、それから数日して豊前の国に着きました。
清麿公が警備の者の許しを受けて、宇佐神宮を参拝しようと輿に乗って宇佐郡田村にさしかかったところ、300頭ほどの猪が出て清麿公を守護しました。
そして宇佐に詣でたところ、起つことができなかった足もすぐに治ったといいます。そして、大神を拝した御配所へ出立、翌年の神護景雲4年(770)8月4日天皇が西宮神殿で崩御、光仁天皇が御即位になって年号を宝亀と改め、同年9月6日清麿公は召し返され、翌宝亀2年(771)3月29日には元の位に着き、9月16日に薩摩の国員外の介に任ぜられましたが、間もなく豊前の守に還されました。
公は古事にも通じ「民部省例」や「和氏譜」を撰し、当時の大事業である平安遷都の大功を残し、又道鏡は冠位をはがれ、下野国薬師寺別当として赴任させられましたが、宝亀3年4月7日死亡しました。
このようにして、宇佐神宮の国体擁護の御神徳と、和気公の至誠の精神とが皇室を御守護することとなったのです。
この後、宇佐神宮への勅使を宇佐使また和気使といい、和気氏が派遣されるのが例となりました。
(宇佐神宮公式HPより)
宇佐神宮・頓宮からの護王神社・大尾神社への参道の様子 |
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護王神社・大尾神社共通の参道入口
自然石の大きな灯籠がこの社の大切さを物語っているように思いました。 |
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自動車道脇に建つ大きな灯籠 |
護王神社・大尾神社共通の参道 |
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宇佐神宮末社・護王神社入口と、奥に神門透かし塀 |
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神門正面 |
護王神社社殿 |
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神門から入口を振り返る |
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