宇佐市安心院町妻垣203 (平成26年3月28日)
東経131度21分33.85秒、北緯33度25分26.72秒に鎮座。
この神社は、東九州自動車道・安心院ICの南西3km程の辺り、共鑰山の中腹に鎮座しております。
御祭神 比淘蜷_(玉依姫命)・八幡大神(応神天皇)・神功皇后
元宮
足一騰宮(あしひとつあがりのみや) この妻垣の地は、わが国最古の歴史書「古事記」にも「日本書記」にも神武天皇がこの地に立ち寄られたことが記されています。神武東征のおり、宇佐国造の祖、宇佐津彦命と宇佐津姫命の兄妹がお迎えし、足一騰宮を建てて歓待申し上げたのです。
比淘蜷_
神武天皇がこの地に滞在なさったおり天皇みずから祭祀を行われ、母后玉依姫命を、ここ共鑰(ともかぎ)山(別名-妻垣山)にお祀りし、そこを「足一騰宮」と名付けられました。このことより当社の主祭神は玉依姫命であり、比淘蜷_という神名で人々に称えられました。また天平5年(733)、比淘蜷_は宇佐宮二之御殿に祀られます。このことより当社は、宇佐宮二之御殿の元宮ともいわれています。
八幡大神
宇佐宮の「八幡宇佐宮御託宣集」によれば天平神護元年(765)、八幡大神こと八幡大菩薩はこの地に神幸し比淘蜷_と語り合われた、とあります。八幡大菩薩が御託宣を下し、勅使石川朝臣豊成に命じて神殿を共鑰山麓に創建させ、比淘蜷_と八幡大神をお祀りしたのが、妻垣神社のはじまりであります。
神功皇后
天長年間(824〜834)に宇佐宮三之御殿より神功皇后を勧請し、お祀り申し上げました。以来、当社は比淘蜷_、八幡大神、神功皇后の三柱の神を祀って八幡社と号し、宇佐宮八ヶ社の一社となております。
嘉暦3年(1328)、足利尊氏は武運の再興を願って宇佐宮に参籠し、当社で流鏑馬の神事をとり行いました。天正9年(1581)、豊後大友軍の兵火によって社殿、神宮寺のすべてを焼失しましたが、その後、中津城主黒田長政公によって社殿が再建されました。
明治12年(1879)9月17日、当社は縣社に列せられ、宇佐両院の宗社として今日に至っております。
境内由緒書き より
参道入口に立つ一の鳥居。
神額「八幡宮」
参道
二の鳥居
ギョロ目でメタボ、かなり異相の狛犬。拡大写真はこちら。 | |
(昭和8年(1933)10月建立) |
随身門
随身様 | |
拝殿
申殿
本殿
脇参道入口
脇参道入口の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。 | |
(昭和6年(1931)建立) |
貴船社
忠魂碑
龍の駒
桜
御神木
足一騰宮入口の案内
参道
足一騰宮