長濱神社
大分市長浜町1-8-7(平成20年7月24日)
東経131度37分6.45秒、北緯33度14分3.67秒に鎮座。
この神社は大分県庁の東約300mに鎮座しています。境内周囲にはご神木の大楠を含めた豊かな鎮守の杜が残され、拝殿の屋根瓦には非常に凝った装飾が施されています。境内も社殿も良く整備され気持ちの良い参拝が出来ました。又、狛犬も新旧取り混ぜて3対居ます。
御祭神:少彦名命、大己貴命 合祀:菅原道真公
例祭日:7月5〜7日
境内社:稲荷神社
由緒:創祀 後小松天皇の御代、応永13年(1406)の御鎮座と伝えられる。此の年九州及び四国の地には、未曾有の洪水があった。然るに大分郡府内塩九升(現在の大分市長浜町1丁目)の住民荒巻某と言う者、ある夜不思議な夢のお告げを戴き、翌朝早起きして海岸に出掛けてみたところが、荒涼とした長い波打ち際の砂上に木箱の一角が露出していた。其処で之を掘出して見ると、一個の木造の小さな祠であった。
扉を開いて調べて見ると、中に、一個の神鏡が奉安されて在り扉の裏面に豫州長濱大明神という銘が書かれていた。荒巻某が前夜霊夢のお告げを戴いた折に、白髭、白髪の老翁枕許に現れ「我は豫州長濱大明神である。流れ来たって此の海岸に在ること幾日もである、お前は海岸に出掛けていき、我を砂の中より迎え帰り祠を建てて祭ったならば、我はお前の家に幸福をもたらし、此の地を繁昌させ永く加護を授くるであろう」と仰せられてお姿を消されてしまった。そこで荒巻某ますます事実と御神託とが相符合する事に感激し、木の祠を捧げ祭って家に帰り、後日此の事の様子をつぶさに書状に書き記して国主に訴えられた。
国主豊前豊後両守護兼九州探題大友十代出羽守親世深く感激なされ、府内同慈寺東北地(現在の城址公園の位置)二百余歩の地面及び社殿造営の寄進料を給わった。人々大変喜びやがて神社を造営し、霊鏡を御神体とし、此の地も奇しく長濱であるところから長濱大明神とお呼び申し上げた。其の後190年間此の地に御鎮座していたが、慶長元年閏7月12日地震津波の為、付近一帯の海岸大いに被害を蒙り、神社も亦その例にもれず災禍を蒙った為、春日神社境内に、一時奉斎申し上げ元和5年塩九升町宮脇の地(現在地)に社殿を造営し、同年11月21日に御遷宮がなされた。其の後延宝9年迄御鎮座なされていたが、神社地付近次第に開墾せられ、朝夕汚らわしい事が屡あった為、塩九升松末天満社隣地に社殿を造営し、同年6月3日御遷宮が行われた。現在の社地がこれである。
かみ雛の由来 当社に参拝する人は昔から今日に至る迄、必ずかみ雛を神前に奉納する習慣は大変謂れの有る事で、此れは病気の全快・災難の除去を祈る為である。古い記録を引用して其の事の由来を示すと、刪補年中行事秘録によると、大己貴・少彦名の二神は、我国医道の祖先様である。故に昔は此の二神にかたどって大小(大己貴は御形大きく、少彦名は御形小さく)二つの神像を紙で作って、此れを彦名形と名付けて、病難・災難除けの為に祭ったものである。これは御一神の名を以って、二神を兼ねた事であったが、後に略してひな形と呼ぶ様になった。
現在病気祈願の折に用いるひな形というものが是である。又世に立雛というものがあるが、これは右の雛形を模倣したもので、淡嶋の社に立つ雛を献上して病気平癒を祈るのはこの謂れによる。
みか餅の由来 当社の毎年7月5日・6日・7日の三日間に亘る夏祭りの祭典には、鼠餅の木の枝に米の粉で造った紅白の花蕾を着けて奇麗な造花と為し、付近の商家の店先に飾ってこれを売った。参詣の群集争ってこれを買い土産とした。此の花を名付けて蜜柑餅と言った。
(「長濱社由緒略記」より)
神社入口 |
社号標 |
|
|
拝殿前の金色の眼をした狛犬
この狛犬は出雲丹後の現代版なのでしょうか? |
|
|
(平成15年(2003)1月1日建立) |
拝殿はこの地域独特の千鳥破風の鬼瓦付きの唐破風が付けられるという超豪華な屋根となっています。 |
|
拝殿内の様子 |
千鳥破風上の鬼瓦
立派ですね〜 |
|
|
唐破風上には龍に乗った仙人と虎の鬼瓦が置かれ、唐破風そのものも龍の鱗のように見えます。非常に凝った造りの屋根です。 |
|
本殿 |
|
本殿をお護りしている若々しい玉乗り狛犬 |
|
|
境内社:稲荷神社 |
|
|
筆供養碑 |
神楽殿 |
|
|
末社 |
社日 |
|
|
境内周囲に聳えるご神木の大楠 |
|
|