村落石獅子

島尻郡八重瀬町富盛 (平成20年1月27日)

東経127度43分33.63秒、北緯26度7分46.87秒に鎮座。

 この石彫大獅子は、国道507号線を南下し、八重瀬町の東風平をさらに南下すると富盛の交差点があり、その信号を右折し、300m位進むと富盛公園があります。そこに標識があり、道路をはさんで公園と反対側・北側の小道を入り、道なりに進むと、又、角に富盛の石彫大獅子の案内があるので、左折し尚も坂をあがっていくと勢理城(ジリグスク)入口となり、その城跡の高台に石彫大獅子が置いてあります。
 石段の左側には南国独特の樹叢が見られ、城跡の高台には気根の垂れた大木が聳え、南国ムードを味わうにはもってこいの環境です。
 城跡の富盛の石彫大獅子案内には「この獅子は火除け(火返し)として、尚貞王21年(1689)に設置されたもので、フィーザン(火山)といわれる八重瀬嶽に向かって蹲踞している。この獅子が設置される以前は、富盛村では火災が多く、村人はことごとく困ったということが「球陽」尚貞21年の頃にくわしく記されている。今日でも、旧暦10月1日(竃のお願い)<防火儀礼>の行事にこの獅子を拝んでいる。戦前までは旧暦9月9日(タントゥイ棒)のときに、村の青年たちはこのジリグスクに集まり棒踊りを演じた。
 沖縄各地にある、村落祭祀上の目的でつくられた獅子のなかでも、最大最古のもので、民俗資料として貴重なものである。」と記されています。因みに、八重瀬嶽は勢理城の南西約300m程に聳える1等三角点(標高163m)を持つ沖縄を代表する山の一つです。

 沖縄のシーサーの歴史を振り返ると、一番古いシーサーは浦添ようどれの英祖王の墓の石棺に描かれた獅子の彫刻絵のようで、その後は中国から贈られた石棺に彫られた獅子があり、丸彫りのシーサーは琉球王朝時代に作られた首里城の観会門のシーサー尚真王の墓(玉陵)が一番古いシーサーでしたが、残念ながら先の沖縄戦で壊れてしまいました。村落獅子が置かれたのは、今から約300年前の富盛の大獅子が最古で、フィー山と呼ばれる山が村に幾度も火の災いをもたらしていたので、フィー山からの火災を防ぐ為に置かれたのが始まりのようです。
 村落獅子とは、「悪霊の侵入や火難を防ぐ目的で、集落の入り口などに置かれた石獅子のことで、現在私たちは、シーサーといえば屋根の上から睨みをきかせたものと思っていますが、屋根に上ったのは明治時代になってからのことだそうです。もともとは、城門・寺社の門前・貴族の墓陵、次いで集落の入り口などに設置されたのが始まりです。
 村落獅子として最大最古といわれる富盛の石獅子はヒーゲーシ(火伏せ)として建てられたもので、ヒーザン(火の山)と恐れられた八重瀬岳の中腹にある「シラワレー」とよばれる岩に顔を向けています。尚貞21年(1689)、この獅子は久米村の蔡応瑞の風水によって安置されましたが、それ以前の富盛村ではしばしば火災が起こり、村人はことごとく困っていたと『球陽』に記されています。
 村落獅子が南部に集中していることや、富盛にならって八重瀬岳に向けられた獅子がいくつか確認できることから、富盛の石獅子は村落獅子のルーツともいわれています。また、『球陽』の記録から、獅子の概念が庶民に広まるのは17世紀後半からと推定され、村落獅子は民間への定着という重要な役割を担ったといえます。
 また、村落獅子は、ほとんどが集落の入り口、あるいはヒーザン(火の山)に向けて建てられていますが、龕にまつわりつく悪鬼をはらう役目もあり、獅子を龕屋に向けたり、龕屋の近くに設置したりする例もいくつか見られるようです。
(「沖縄シーサー紀行」より)

入口

勢理城への入口

勢理城跡の様子

ここに有名な「富盛の石彫大獅子」がいます。
高さ141.2cm、全長175.8cmもある石彫の大獅子で、県の民俗文化財に指定されていますが、石彫獅子としては最大最古のものとして貴重な存在であり、気品溢れる顔立ちや姿は完成度の高い造りだと思います。普通沖縄では開口は雌、閉口は雄のようですが、この獅子は開口で雄の様です。切れ長の目が理知的で、太い鬣が首の後ろまで伸び、顎髭も蓄えています。胸には鈴のような物も見えます。垂れ耳で、尾は付け根が細く、お尻の上で扁平になり立てられています。この大獅子は本土の狛犬と共通している部分が多く見られる、美形の獅子ですね〜。

大石獅子。拡大写真はこちら。

(尚貞王21年(1689)建立)

前の大戦時、米軍との攻防がこの地で争われ、石獅子胴体の穴は弾痕と言われています。

八重瀬町富盛の風景