世持神社

那覇市奥武山町44(平成20年1月24日)

東経127度40分34.11秒、北緯26度12分1.46秒に鎮座。

 この神社は奥武山公園内、県立奥武山総合運動場・武道館脇に神社入口があります。鳥居を潜り、階段を上がると参道は右に90度折れ、その先正面に二社殿並列の形で社殿が建っています。その右側には稲荷神社のような赤い鳥居の境内社が建ち、「大國大明神、混比羅大明神、恵比須大明神」碑も祀られています。社殿の正面から下ると石獅子がいたり、池の中にまるで参道のように道が造られていたり、島外の人間にはよくわからない造りとなっています。

 御祭神:沖縄の3偉人(野國総官、儀間真常、祭温)
 例祭日:世持神社感謝祭・10月10日
 由緒:昭和初期、「沖縄の産業の恩人を祀るため神社をつくり、子々孫々までその恩恵がおよぶように」と、儀間真常と野國總管の二人を祀る神社の建設計画がありました。その後、沖縄産業の発展に功績のあった蔡温も一緒に祀る新たな提案がされ、三大恩人として、野國總管・儀間真常・蔡温を祀ることが決まり、昭和9年(1934)には、沖縄県知事を会長とする「神社創立期成会」が結成され、神社名を「世持神社」とすることが決定されました。「世持」とは、沖縄のことばで「ユームチ」といい、世の中をささえるという意味があります。そして、昭和12年(1937)ついにこの社は創建されました。

 野國総官:中世、沖縄は台風や干ばつなど、農作物の栽培が難しいほどの自然災害に見舞われがちで、慢性的な食料不足の状態が続いていました。1605年、そのよう状況の沖縄に野國総管という人物が中国・福建より唐芋(さつまいも)の栽培方法を習い、鉢に植えて持ち帰り、故郷の野國村で栽培を始め、村人の大切な食料とした人物です。
 儀間真常:野國村の唐芋の噂を聞きつけた、那覇の勧業地頭・儀間真常は野國総官のもとに出向き、唐芋の栽培方法を習い、苗を譲り受けました。真常は自らの手で栽培を成功させたあと、沖縄の各地に出向き、苗の手配から栽培指導まで行い、1620年ごろには唐芋は沖縄各地で栽培されるようになり、やがて主食の座を占めるようにまでなり、沖縄では爆発的に人口が増えていきました。又、薩摩から木綿種を持ち帰りその栽培と木綿織りを始めたり、サトウキビの栽培精糖技術を伝播するなど、琉球の経済を支える根幹産業を造り出した人物です。
 祭温:正式名称は「蔡温具志頭親方文若」と呼び、王府から中国への進具在留通事を任命され留学し、地理・風水を学んで帰国しました。47歳で三司官(大臣)に就任し、尚敬王を補佐し25年間にも渡って琉球の国政に関わり、第二次琉球王国の黄金時代を形成したとされます。また本島北部に位置する羽地地域などの治水工事を風水技術を駆使して行い、農業の復興にも貢献し、政治・経済・土木技術に優れた指導者として名を残した人物です。

神社遠景 神社入口
社殿
仏像や恵比寿神・大黒神・木のご神体が祀られている二社殿内の様子
境内社と「大國大明神、混比羅大明神、恵比須大明神」碑
旧参道?入口にいる建立年代不明の石獅子
縦置きで、阿吽があり、一対で置かれていますが、沖縄独特のシーサーの姿をしています。頭上から後ろに一直線に伸びた馬の鬣のような毛が面白いですね。
シーサーの拡大写真はこちらで
神社横、奥武山公園の池ですが、まるで世持神社への参道のように、
道が池の中を一直線に神社へと伸びています。
私たちは「世持神社の旧参道なのかしら?」と思ったのですが真偽の程はいかに?
奥武山公園の池に同じ方向を向いて建立されていた石獅子
視線の先には何がある?
奥武山公園の池に居た巨大な龍