村落石獅子

宜野湾市喜友名2-29(平成20年1月24日)

東経127度45分45.81秒、北緯26度16分57.37秒に鎮座。

 この石獅子は81号線の喜友名の北の入口に北に向けて置かれています。
 石獅子といってもここの獅子は頭部だけです。喜友名地区には現在7体の石獅子が残っており、喜友名石獅子群としてまとめて紹介させていただきます。

 喜友名公民館で戴いたパンフレットには次のように紹介されています。
 喜友名の石獅子群
 市指定有形民俗文化財

石獅子の守り
 喜友名区は、集落全体が碁盤の形のように規則正しく区画整理された古き時代の計画集落のひとつです。そこには、あたかも集落を取り囲むように石彫りのシーサー(獅子像)があり、部落や屋敷内に他から厄や忌み嫌われるものが入らないように、それらの「反レ」として置かれています。
 シーサーは七体あり、集落の東外れに一体(屋号トゥクイリーグワーの前)、南外れに四体(同イリーグワーの石垣・ミートクマヤの前・メーマシチの前・メーントウの前)、西外れに一体(同ナカムトウの前)、北外れに一体(同メートーヤマの前)にそれぞれ置かれています。それらは威厳にみちた立ち構えやユーモラスな顔付きをしたもの、普通の穴だらけの山石と見間違えるものなど、子供たちの遊びの相手としても、表情豊かなシーサーたちです。
 古老によると、もし、分家により集落が拡がり、シーサーより分家の者がはみ出すと、シーサーもその前に移し、新旧を問わず広く区民全員が、その恩恵が受けられるようになっていました。

沖縄最多の石獅子
 喜友名区のシーサーは、集落を取り囲む石獅子の数としては、沖縄県で最も数多いものとなっており、集落へのシーサーの置き方・シーサーの頭の方向・シーサーの形の変化などを知るうえできわめて重要です。戦前には喜友名区以外にも、集落を守る石彫リシーサーが、普天間・新城・伊佐・嘉数・我如古にもありましたが、今残っているのは喜友名区だけです。
 なお、部落のさらに西側にはやはりシーサーの形をした「ヒージャーグーフー」と呼ばれる石像が土盛りの上に、集落の北側の見晴らしの良い高まりには「ウフプタ」と呼ばれる自然石があり、いずれも「反し」としての性質を持つものです。本シーサ一群と合わせて貴重な文化財です。

★7体の石獅子が集落をとり囲むように、部落や屋敷内に他から厄や忌み嫌われるものが、入らないように「反し」として置かれています。村落獅子の保有数のなかでは、最も多い数です。
★シーサーの由来は東風平の富盛にたびたび火事が起こるので、久米村の風水師に見てもらうと、「八重瀬岳が火山といわれているので、獅子を造って八重瀬岳に向けて立てよ」と教えられ、獅子をつくって八重瀬岳に向けて立てたところ、果たして火事が起こらなくなった。シーサーを火よけ・魔よけとして利用するようになったのは、富盛の石獅子(1689年)が始まりという説もあります。
★屋根獅子は瓦葺き建設が始まった明治以降のことです。屋根葺き職人が瓦をふいた後に瓦片に漆喰をくわえて造ったものと言われています。