豊原北島神社

瀬戸内市邑久町北島1186 (平成25年11月4日)

東経134度03分52.96秒、北緯34度39分06.06秒に鎮座。

この神社は、JR赤穂線・大富駅の南東1km程の辺り、餘慶寺の境内のような場所に鎮座しております。明治の神仏分離令を掻い潜ってきたのでしょうか。神仏混淆を色濃くのこしています。

御祭神 豊原北島神・応神天皇・神功皇后・比淘蜷_

当社は飛鳥時代舒明天皇6年12月山上の磐座に奉祀したのに創る。延喜式外の古社旧郷社で、古来当国屈指の名社として崇敬され、平安時代は近衛院殿の祈願社豊原荘の鎮守として栄え、源平時代佐々木盛綱は藤戸合戦奉賽に大鎧等を奉納、南北朝時代は児島高徳の一族和田射越氏等が氏子から興った。江戸時代は池田候により中世以来習合の寺社は分離されて旧に復し、社領寄進社殿造営が行われた。
境内由緒書き より

御祭神 応神天皇・神功皇后・比め大神・豊原北島神・品陀和気命

由緒
舒明天皇6年(634)豊前国宇佐より勧請、神社東の鎮座石の上にわらをとき敷いて奉祀したことから、「ときわら」が荘名の「とよはら」となったと社伝にいう。北島は往古この地が島であったことを示し、豊原荘北島に座す神社で延喜式外の古社、従五位上豊原北嶋明神・上八幡大菩薩・正八幡宮ともいわれ、平安時代には近衛天皇の勅願所・白河・後鳥羽院領の鎮守神でもあった。平安末、山続きの今木城では源平合戦が行われ、また、源氏の武将佐々木盛綱は児島藤戸合戦の折、戦勝を祈願して甲胃・武具を奉納、鎌倉末から南北朝時代には児島高徳の同族といわれる大富・和田・射越氏などが氏子より興って南朝方として活躍した。社殿もこれらの兵火などによって焼失したといわれるが、領家・領主・氏子により造営・神領の寄進が行われた。現社殿は、本殿を大正8年に、他を昭和14年に昔の様式によって鎮座1300年を記念して改築した。
神社を中心に両側に寺坊の建ち並ぶ形は、平安時代の神仏習合(本地垂迹)の形をとどめている今では珍しい古い形で、神仏の分離は藩主池田光政により行われ、寛文6年(1666年)余慶寺本乗院良庸が還俗して神職となり代々相続している。六代業合大枝(なりあいおおえ)は、本居宣長・平田篤胤・藤井高尚の門人で歌人、国学者。「新学異見弁」・「古事記神代記新釈」などの著があり、境内に歌碑・神社東に旧宅がある。
明治3年豊原北嶋神社と社名を改め、明治4年郷社、明治41年神饌幣帛料供進神社となった。
岡山県神社庁公式サイト より

参道入口

参道入口の浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(安政7年(1860)庚申6月吉日建立)

鳥居

神額

境内入口

拝殿

拝殿内部

本殿


気比神社

気比神社を護る浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)
稲荷神社
天神社
西遥拝所 東遥拝所

弁天池と弁財天。後は餘慶寺会館。