美和(みわ)神社

瀬戸内市長船町東須恵1064 (令和5年1月6日)

東経134度08分51.27秒、北緯34度40分19.57秒に鎮座。

この神社は、瀬戸内市役所の東4.5km程の辺り、人家を外れた山中に鎮座しております。

御祭神 大物主神

由緒
当社は延喜式神名帳(927)に記載されている古社で祭神は大物主神である。当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)から勧請したと言われてる。
勧請年月は明らかではないが、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われているので7世紀前後のことと思われる。ご鎮座の場所は標高166mの広高山の山頂である。広高山は三和の峰とも呼ばれていた。
当社は永禄年中(1558〜1570)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われている。明治3年にもとの美和神社に復称し、今日に至っている。社宝に文字瓦(長船町重要文化財)がある。この瓦には次の文字が彫り込まれている。
「天正13年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」
主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」である。
すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美和神社の別当である。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかる。
慶安元年(1648)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3基、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋となっている。当時の祭典がたいへん盛大であったことが窺える。
10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りをする行事が大昔から現在まで続いている。 広高山には神功皇后の愛馬「白鷹」の伝説がある。神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩されたとき、皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、北に向かって泳ぎ尻海に上陸した。「白鷹」はさらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えて死んだ。須恵の住民は「白鷹」をねんごろに葬り、山の名を「白鷹山」と呼ぶようになり、後に「広高山」になったと言われている。
当社の東にある榊谷という深い谷に「美和の井」という井戸がある。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの井の水を調進す」と記載されている。
岡山県神社庁公式サイト より。

境内由緒書きはこちら。

境内の北西500m程、道路脇に立つ一の鳥居。

鳥居の由来
この鳥居は参道入口西の県道沿いに建てられ、古代美和神社の神体山三和ノ峰を遥拝する鳥居であった。
特にこの鳥居は冬至の日の太陽が三和ノ峰の山頂から昇る位置にあった。このことから冬至に鳥居の前で太陽の復活を祈りm五穀豊穣を願う祭祀が行われていたと推定されている。
三和ノ峰とは現在の広高山のことで、山頂には磐座がある。
この鳥居は昭和50年道路拡張に伴いこの地に移転された。
原文はこちら。

入口左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(明治31年(1898)3月建立)

ぞうり神様。かつての参道でしょうか。古道の説明はこちら。

祇園様・竜王様

神社入口

随身門

随身様

拝殿

神額

拝殿内部

本殿


日吉神社

稲荷神社

若宮神社

武甕槌神社

広高神社遥拝所

瀬戸内展望図

展望