葦守(あしもり)八幡宮

岡山市北区下足守468(平成21年8月24日)

東経133度48分36.68秒、北緯34度43分00.62秒に鎮座。

 この神社はJR吉備線・足守駅から北へ約4km、429号線東に鎮座しています。私達が向かった南参道入口から境内までは約400mも有り、参道入口に建つ両部鳥居は国指定重要文化財で、石鳥居のこの形式のものは珍しく、石の鳥居としては最古の部類に入る貴重な物のようです。
 社地入口に建つ明神鳥居の額には「八幡神社」と書かれ、石段参道途中には随神門が建ち、百日紅の花が咲く境内入口を入ると、天明6年生まれのこれまた珍しい姿態の狛犬がいます。豪華な唐破風付きの開放的な拝殿後ろには、幣殿・本殿と続き、幣殿脇には亀の背中に灯篭のような物を乗せた、これまた珍品と言わざるを得ない石製品が置いてあります。その他境内社も多数祀られていました。

 御祭神:応神天皇、神功皇后、玉依媛命、兄媛命、御友別命
 祭礼日:1月1日・歳旦祭、7月第4日曜日・大祓祭、10月第2日曜日・秋季大祭
 境内社:高良大明神、弁才天他
 由緒:当宮は世にいう葉田葦守宮で応神天皇行幸の旧跡である。葉田葦守は応神天皇の皇妃吉備兄媛の郷里であり、応神天皇の22年9月この地に御臨幸になった。
 応神天皇はこの行幸において、兄媛命の兄御友別命及びその子、兄弟のもてなしを受けたことを大変喜ばれ、吉備の地を分国し、長子の稲速分(下道臣の祖)に川嶋県、次子仲彦(上道、香屋臣の祖)に上道県、末子弟彦(三野臣の祖)に三野県、兄の浦凝別(苑臣の祖)に苑県、弟の鴨別(笠臣の祖)に波区芸県を与えられた。
 このように当宮は吉備の国の建国にゆかりのある宮である。天皇崩御の後、御友別命の子中津彦命(仲彦)は、天皇の仁徳を追慕し、天皇の神霊をその行宮跡に斎き祀り、葉田葦守宮と称したのが現葦守八幡宮である。
 爾来中津彦命の子孫で、葦守に居を構えた香屋臣(賀陽氏)は、一族中から相つぎ神主を送り出し足利氏末年に至るまで連綿と奉仕した。
 葦守八幡宮は代々の守、介や武将からも崇められたが、中でも豊臣秀頼は慶長12年奉行小出大和守をもって神鏡一面を奉納され、豊臣家再興を祈願している。
 平安時代末期の嘉応元年(1169)につくられた足守荘園図には庄の中央から少し北寄りの現葦守八幡宮の地に、八満山と八幡宮の文字が見え、社と鳥居が図示され鎮守の神として庄の信仰の中心になっていた当時の様子がうかがえる。
 慶長年中従三位木下家定がこの地に移封後約250年間は同家累代藩主の産土神として、また領内総鎮守として、格別尊崇され、社殿の修理、祭典その他の費用に至るまで寄進された。
(「岡山県神社庁公式サイト」より)

南参道入口
南参道入口に建つ国指定重要文化財・両部鳥居
葦守八幡神社の鳥居は安芸の宮島の大鳥居と同様に、明神鳥居の柱の基部に稚児柱を伴う、 両部鳥居であり、石鳥居のこの形式のものはめずらしい。花崗岩製で、高さ4.3m、柱の真々間3.4mを計り、柱が太く低目ぎみに見える時代的特徴を 示している。向かって右側の柱の内側に「康安元年十月二日願主神主賀陽重人(中央)、大工沙弥妙阿(右) 祝主僧頼澄(左)」の刻銘があり、1361年(南北朝時代)の造立と判明している。大工の「妙阿」はこの鳥居より十五年前に建立された鼓神社宝塔(国指定重文・上高田所在) の石大工と同人物であり注目される。 この鳥居は、在銘の石鳥居としては、最古の部類にはいり、この時代のほぼ完全な姿を伝える全国的にも貴重なものである。(「岡山市教育委員会案内板」より)
南参道の様子
社地入口に建つ明神鳥居 鳥居「八幡神社」
参道途中に建つ注連柱
石段の参道
石段参道途中に建つ随神門
境内入口
拝殿前、天明6年生まれの狛犬
阿は垂れ耳でやや尖った狼のような顔つきで、吽は角があり耳をピンと立てています。スリムな体つきですが鬣の渦は立体的で、尾は浪速に近いような感じです。この様な耳の組み合わせを持つ狛犬は、岡山ではこの他に三対見てきましたが、全てが天明年間に建立された物でした。同じ石工さんの作とも見えないのですが、この時期こういう造りが流行していたのでしょうか?1700年代後半の狛犬としては斬新なデザインの良い狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(天明6年(1786)建立)
拝殿
幣殿と本殿
本殿木鼻・狛犬と象 幣殿脇に置かれている亀石?
境内社:弁才天 境内社:高良大明神
境内社 境内社
神楽殿 鐘楼
鎮守の杜の様子