豊原角(とよはらすみ)神社

岡山市東区西大寺浜104-1(平成21年8月23日)

東経134度02分35.45秒、北緯34度38分46.22秒に鎮座。

 この神社は吉井川にかかる永安橋の東詰から100m北に鎮座しています。お寺のような白塀に囲まれた、静かで綺麗な神社です。昔はこの社に三本の大きな松があり、老松「浮根松」が県天然記念物となっていたようですが、第二次大戦の折松根油として調達され、残りの松も枯れてしまい、現在は面影も残っていません。
 社地南に参道入口が付けられ、石畳を行くと随神門にぶつかります。その手前には嘉永7年生まれの浪速狛犬がおり、広々として明るい境内中央に大きな拝殿、石垣上の玉垣内に本殿が建立されています。周囲には境内社も祀られ、氏子さん達がこの社を大切に育んできた想いが伝わる神社でした。

 御祭神:白山比淘蜷_、大己貴命、少彦名命
 祭礼日:1月2日・新年祭、5月15日・春祭り、10月15日に近い日曜日・秋祭り
 境内社:稲荷神社、出雲大社遥拝宮、祇園神社、荒神社
 由緒:旧村社で、創建年代由緒等は不詳であるが、備前国神名帳(山本氏本)に、従五位上豊原角明神とあり、備前国古社128社の一つで式外の神社である。
 古くは豊原角明神と言われており、次第に白山権現と称えられるようになり、明治2年白山神社と改称、明治3年豊原角神社と旧社名に復したと思われる。
 『改訂邑久郡史』などに依れば、宇喜多家代々の崇敬が誠に厚く、社領は50石を賜わっていたが、慶長年中、小早川秀秋公に没収され、池田家よりは代々4石7斗9升9合を賜わった。更にさかのぼって中世の応永元年の頃神庫が火災となり、往古の記録が失われた事が記されており、このために何時の時代に、北陸の加賀国、今の石川県より、霊峰白山の神々を此の西大寺浜の地に(此の地は往古、古井川が瀬戸内海、見島湾に注ぐ河口であり、白砂の浜辺であった)何如なる理由でお迎え申し上げたかは、全くの謎である。但し、当神社の御神紋は非常に珍らしく「三子持亀甲風花」(みつこもちきっこううりのはな)と呼ばれ、実に石川県石川郡鶴来町三宮町鎮座の元国幣中社白山比盗_社と同一であり、故に然るべき理由が有って神々を御勧請申し上げたかと思われる。
 更に『改訂邑久郡史』では、中世の神仏習合の時代には、神宮寺たる願満寺があり、社僧が神職と共に奉仕していた事、或は又、当神社はもともと、豊村長沼字円定寺山の麓に鎮座していたが、これを一度、西大寺浜の下荒神の地に遷座、後の世に再度遷座して、円定寺山麓より4〜5町も離れた現在地に移された事、も述べられており、現在では、その真偽の程は明らかではないが、鎮座地の3度の変遷は、おのずと当神社の歴史の古さを物語るようにも思われる。
 又、現存する棟札は、ほんの数枚を数えるのみであるが『改訂邑久郡史』『大正4年邑久郡神社詰』などでは、慶長17子年9月吉日 奉造営新宮六社権現本社  寛政元年9月吉日 奉建立白山権現 神職 祝部権之丞  寛政元年5月吉祥日 奉修葺白山権現御屋根 雨宮 祝部縫殿 等々、歴史を如実に物語る貴重な棟札が幾枚も存していた事が知られ、当神社の歴史を明らかにする上で、代々祠官として奉仕した、祝部家の系図の研究の大切さが、又、御祭神の名前決定の難しさが、よく理解されるかと思われる。
 扨、昭和9年9月10日神饌幣帛料供進の神社に指定され、戦前は旧豊村の総氏神として仰がれ、又、殊に歯痛を和らげるに霊験あらたかな神として(ハクサン様→ ハクサ様→歯草様)社頭の隆盛をみた当神社も、戦後40年余りに亘って、社殿、神域の荒廃がすすみ、(然し祭祀は厳修されていた)心有る地域の人々を嘆かせていた。
 昭和60年頃より昭和62年にかけて、建設省が施工した一級河川吉井川改修(新地提防)工事に、境内地の一部の譲渡を余儀なくされ、これを契機に氏子一同力を併わせて、社殿ことごとくを改築移転を為し、白壁、総銅板葺きの社殿が、昭和の大修復として見事に甦ったのである。更にその後、社務所も新築され、鎮守の杜の復活を念じて植樹も施され、御社頭は面目を一新し、秋祭りを中心に、年中行事には老若男女氏子挙りて参加する美しさ信仰も復活、此の有様を見て、神職総代一同一丸となりて、弥益々の御神徳の発揚を目指す昨今である。
(「岡山県神社庁公式サイト」より)

社頭
参道の様子
参道途中にいる嘉永7年生まれの浪速狛犬
縦長スリムで、優しそうな狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(嘉永7年(1854)9月吉日建立)
随神門
境内の様子
拝殿
拝殿向拝下彫刻
本殿
境内社:稲荷神社 境内社:出雲大社遥拝宮
境内社:祇園神社 境内社:荒神社
忠魂碑