岡山市東区西大寺一宮895(平成21年8月23日)
東経134度05分51.71秒、北緯34度36分28.54秒に鎮座。
この神社は235号線に大きな案内板があり、神橋が架かり、注連柱が建てられています。そこから一直線に伸びた参道が約330mほどあり、社頭には大きな社号標と備前焼の宮獅子が置かれています。
注連柱右奥にある一の鳥居をくぐって緩やかな坂道を登ると、やや広くなった参道の左側に四代岡山藩主・池田綱政公によって奉献・建立された二の鳥居が建ち、石段の参道を経て境内へと続く石段参道がありますが、かつてはこの石段の下に賽銭箱が設置されており、一般の参拝者は石段を上がることができなかったそうです。現代に生まれ育った私達だからこそ、この様に何処の神社へも参拝ができ、又境内にまで上がることができますが、古には極限られた特別の人達だけが参拝を許されていたのですね。つくづく現代人の幸せを感じる出来事です。
境内正面には千鳥破風の付いた入母屋造りの大きな拝殿が建ち、その後方に幣殿、中門、透かし塀内に本殿が建立されています。其の本殿前には建立年代不明の浪速狛犬がいますが、苔と剥落でその姿は余りよく判別できません。
又、境内周囲には沢山の境内社と遥拝所が設けられています。
裏山では 明治36(1903)年、(社伝では明治34(1901)年)大雨によって本殿裏手の斜面が崩落し、土砂の除去中に弥生時代初頭(およそ2,000年前)のものと考えられる銅鐸が発見され、県指定重要文化財となっているそうです。
豊かで大きな森の中に神社が鎮座し、参道・境内・社殿など全てが綺麗に整えられた素晴らしい環境の元、古代から連綿と続く祭祀場の雰囲気をひしひしと感じられる神社でした。
御祭神:五瀬命、稻氷命、御毛沼命
祭礼日:1月1〜3日・初詣(昇殿参拝・新年特別祈祷)、1月の第三日曜日から月曜日・新春恒例 伊勢神宮参拝旅行、2月11日(建国記念日)・海中禊(岡山市宝伝 旧宝伝海水浴場)、4月29日(みどりの日)・春季 講社大祭(瑞垣御門前 特別参拝)、6月初旬・崇敬者大祭(全国の崇敬会々員による祭典)、6月30日・大祓い(上半期の罪・穢れを取り払う神事)、7月11日・茅の輪くぐり(夏越しの祭り)、9月の第四日曜日・秋季 講社大祭、10月の第二日曜日・大祭(いわゆる秋祭り)、11月23日(勤労感謝の日)・新嘗祭、11月初旬から12月初旬頃・七五三参り、12月下旬 ・すす払い(大掃除)、12月31日・大祓い(人形に1年間の罪・穢れを託し、地球全体から清める)
境内社:右補神社、左補神社、荒神社、稲荷神社
由緒:当社の創立年月日は不詳である。
「続日本後紀」の承和8年(841)2月8日の条に『安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)』とあるのが初見で、「延喜式神名帳」に備前国名神大社とある。
古くは「兄神社」又は「久方宮(ひさかたのみや)」と称したとも伝えられている。
御祭神は五瀬命・稲氷命・御毛沼命等である。この社地は、宮城山(みやしろやま)、別名鶴山といい、元宮は標高80メートル位の頂上にあった。
その後、備前藩主池田家の祈願所として現在の地に鎮座した。明治4年国幣中社に列せられ勅使の御参向があった。大正15年皇太子殿下が行啓され、祈年祭・新嘗祭・例大祭には幣帛供進使の参向などがあり、戦前(大東亜戦争まで)は荘厳で隆盛な神域であった。
昔はこの鶴山の麓まで海であり、入江の奥の良港だった。後方の山には磐座や列石があり、古代の祭祀跡と見られるところに、神武東征の船の「ともづな」を掛けたといわれる「綱掛石神社」などがある。
(「岡山県神社庁公式サイト」より)
式内社(名神大)、備前国旧一宮で、旧社格は国幣中社。
現在は、五瀬命を主祭神とし、稲氷命・御毛沼命を配祀するとしている。これは、古くは「兄神社」と称していたと伝えられることから、初代天皇の神武天皇の「兄」に当たる五瀬命ほか二神を祭神としたもので、明治時代に定められたものである。
古文献では当社の祭神については様々な記述がある。社名より平安時代の参議秋篠安仁(あきしののあに)や右近衛大将安倍朝臣安人(あべのあそんやすひと)、和珥氏の祖神であるとするもの、天照大神、五十狭芹彦命(吉備津彦命)、また、単に当地の地主神であるとする説もある。このように諸説あって定められないことから、1870年(明治3年)の「神社明細帳」では「未詳」と書かれている。現在の五瀬命は明治8年に安仁神社社務(神職)が作成した「安仁神社御傳記」に初めて現れるが、1925年(大正14年)に社務所が作成した「安仁神社誌」では、やはり定められないとして社名に神をつけた「安仁神」としている。第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)に作成された「神社明細帳」で再び五瀬命とされ、現在に至る。
創建の年代は不詳である。社伝では、神武東征の際に五瀬命が数年間この地に滞在し、神武天皇が即位の後に五瀬命ら皇兄たちをこの地に祀って「久方宮(ひさかたのみや)」と称したのが起源としている。
国史の初見は続日本後紀の承和8年(841年)2月8日条に「安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)」とあるもので、平安時代後期に編纂された延喜式神名帳では備前国では唯一の名神大社に列せられている。元々は当社が備前国一宮となるはずであったが、939年における天慶の乱において当社が藤原純友方に味方したため、一宮の地位を朝廷より剥奪されたとされる。その後、備前国一宮の地位は天慶の乱勃発当時に朝廷に味方した備中国の一宮である吉備津神社より御霊代を分祀されて創建した吉備津彦神社(岡山市北区一宮)に移ったと伝えられる。
元々、社殿は背後の宮城山(みやしろやま)の山頂にあったが、康永3年(1344年)に火災で焼失した。その後、備前藩主池田綱政によって現在地である中腹に再建され、備前藩の祈願所となった。
明治4年に国幣中社に列せられ、祭典への勅使参向、皇太子の行啓(大正15年)を仰ぎ、祈年祭・新嘗祭・例大祭には併せて幣帛供進使の参向があった。第二次大戦後は神社本庁所管の神社として別表神社となった。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
神社遠景 | |
235号線脇の参道入口 ここに大きな案内板があり、神橋が架かり、注連柱が置かれています。 |
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社号標 「国弊中社安仁神社」 |
社頭 |
社頭にいる明治末期〜大正初期建立の備前焼宮獅子 明治末期から大正初期に奉納されたもので、当代備前焼の名細工師 木村宗太郎氏による奉納物。県内では比較的備前焼による狛犬奉納が盛んであった(近年、岡山県教育委員会による備前焼の狛犬集成がなされている)。(「安仁神社非常勤神職によるサイト」より) 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(木村宗太郎造立 明治末期〜大正初期建立) |
参道途中に建つ一の鳥居 | 参道の様子 |
参道途中に建つ二の鳥居 江戸時代の初期、四代岡山藩主 池田綱政公によって奉献・建立されました。 古老の話によると、かつて鳥居の右側には大きな松が立っていて、後年枯れてしまったために 大きく右側が開いているとのことです。 (「安仁神社非常勤神職によるサイト」より) |
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石段の参道 | 参道の様子 |
随神門 |
石段参道と境内入口 かつてはこの石段の下に賽銭箱が設置されており、一般の参拝者は石段を上がることができませんでした。石段を上がれるのは勅使様や祭典参列者など、ごく限られた人々だけだったようです。 (「安仁神社非常勤神職によるサイト」より) |
境内入口、注連柱の前にいる平成14年生まれの狛犬 石製の狛犬ですが、姿は宮獅子です。社頭にいる備前焼宮獅子とそっくりです。模した物なのでしょうか? 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(平成14年(2002)12月吉日建立) |
境内の様子 |
拝殿 |
幣殿 |
中門 |
本殿前にいる建立年代不明の狛犬 直置きですから、相当古い浪速狛犬と思われますが、身体に苔は付き、剥落が酷く、今となってはその姿を想像するしかありません。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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本殿 |
境内社:左補神社 | 境内社:右補神社 |
ご祭神は幾許神(いくばくのかみ)。本殿の左右に向かい合うように建立され、主祭神の五瀬命に日向国より付き従った将軍たちを祀っています。 | |
境内社:稲荷神社(稲荷大神) | 境内社:荒神社(お土公様) |
左・綱掛石神社遙拝所 (伝説によると、主祭神である五瀬命が近在に初めてお越しになったときに付近は深い入り江で、船の艫綱を掛けて停泊した石が後年、信仰の対象となったといわれています。現在は安仁神社から東南の山頂に社殿が所在しています。) 右・天神社遙拝所(天御中主神) |
伊登美宮遙拝所 (安仁神社の南側丘陵上に位置する神社を拝し、「伊登美」とは「営み」の字訓の転で、かつて五瀬命に付き従う将兵が兵舎を営んだ地点との伝説が残されています。) |
滝神社遙拝所 (安仁神社東側の丘陵上に鎮座する水神) |
御神水 |
伊勢神宮遙拝所 (天照皇大神・豊受大神) | 出雲大社遙拝所(大国主命) |