岡山市東区大多羅町541 (平成25年11月4日)
東経134度00分34.00秒、北緯34度39分50.48秒に鎮座。
この神社は、JR赤穂線・大多羅駅の北250m程の辺り、芥子山の西に延びる尾根から少し下った斜面に鎮座しております。
宝亀二年(771)8月勧請創立社伝によると「本国総社本」に正三位布施大明神と記載され備前国式内外古社128社の一なりとある。
寛文6年光正の神社整理の政策のよって神仏分離により薬神寺が廃寺となり元の社格に復した。
正徳2年綱政は71の奇宮の内社殿の荒廃した66社を当社句々廼馳(くぐのち)神社を拡張して統合した。
大正5年11月11日当社境内の句々廼馳神社を藩制改革の際寄附米が廃止されたため社殿が荒廃し本社の合祀した。
大正7年4月26日当社同境内にあった益野の氏神八幡宮が合祀された。
なお句々廼馳神社の祭神は句々廼馳命・軻遇槌命・埴安媛命・金山彦命・罔象女命であり八幡宮は足仲彦命・誉田別命・息長帯姫命である。
境内由緒書き より
御祭神 大己貴命・句句廼馳神・軻遇槌・埴安姫命・罔象女命・金山彦命・足仲彦命・譽田別命・息長足姫命
由緒
当社は宝亀2年(771)8月勧請し創建された。社伝によると本国総社本に正三位布施大明神と記載され、備前国式内外古社128社の1社であると伝えられている。
寛文6年(1666)池田光政の神社整理の政策によって、薬神寺が廃寺となり元の社格に復した。正徳2年(1712)綱政は71の寄せ宮の内、社殿の荒廃した66社と当社の句々廼馳神社を拡張して統合した。大正5年11月11日境内の句々廼馳神社と藩制改革際寄付米が廃止され社殿が荒廃したので本社に合祀した。
大正7年4月26日境内に祀られていた益野の氏神である八幡宮が合祀された。
岡山県神社庁公式サイト より
参道入口。参道を横切るのはJR赤穂線。
参道
社号標
鳥居
どんぐり眼の浪速狛犬。拡大写真はこちら。 | |
(安政4年(1857)丁巳5月吉日建立) |
参道
神門
神門前の浪速狛犬。拡大写真はこちら。 | |
(慶応3年(1867)丁卯8月吉日建立) |
随身様 | |
境内入口
境内
拝殿
本殿
稲荷社
稲荷奥院
八幡宮跡
吉備津神社拝所
出雲大社拝所
天神社
牛神様
皇太神宮
大多羅寄宮跡
江戸時代の寛文6年(1666年)に、当時の岡山藩主・池田綱政は藩の領地である備前国内の産土神601社全ての由緒を調査させ、領地内にあった祠や社10,524社を廃して、71社の寄宮(複数の神社を合祀した神社)として再編した。
さらに正徳3年(1713年)、上東郡大多羅村の芥子山南西中腹にあった句句廼馳神社(くくのちじんじゃ)の境内を広げ、71社の寄せ宮の内の66社を境内に合祀し社殿を建て、大多羅寄宮とした。岡山藩は大多羅寄宮に毎年社殿の修理費と神供料を支給していた。
明治になり廃藩置県によって岡山藩の社殿運営費用が途絶えたため、明治8年(1875年)に大多羅寄宮は句句廼馳神社とともに芥子山南西麓にある布勢神社に合祀され、現在に至っている。なお、旧境内地には石垣・石段・社殿跡などが現存している。
昭和2年(1927年)4月8日には、跡地が国の史跡に指定された。
ウィキペディア より