熊野神社

真庭市上河内3454 (平成26年7月21日)

東経133度48分52.85秒、北緯35度04分00.92秒に鎮座。

この神社は、に鎮座しております。

御祭神 伊弉諾神・伊弉冉神・素戔嗚神・稻田姫命・津速産靈神・速玉男命・事解男命

由緒
当社は小野道風(66才)・藤原佐理(17才)にて昇殿を許され、内裏が完成した天徳5年(961)勅名により紀州熊野三山を美作国河内庄に分祀。村上天皇の天徳5年(960年)那智宮を上河内村下村に、永観年中(983~984)下河内村に新宮を、また上河内村に本宮を分祀された。
時の国司藤原佐理、権守源時中が奉仕した三山の中の本宮が現在の熊野神社であり新宮、那智夫々に約50丁(旧1里)を隔て、紀州の縮景の趣がある。社殿の景観は本宮は豪壮に、新宮は優美に、また那智は枯淡である。この三山をもって河内庄の鎮守とした。
朝廷は神田200石を寄進し、神官社僧各12人を置き祭祀を厳修せしめた。美作国西6郡の3年に1度の大祭は津山市二宮高野神社の社前で国守の安泰を祈祷する祭りであるが、この閏年祭は明治に至るまでしめの大夫須田越中守(当社祀職)が祭典を調理した。当時は作州西六郡に下知し、最盛期は祀職200員を越える作州最大の祭典であった。旧境内地は東西483間、南北495間、約1キロメートル4方で神社を中心に僧房、堂塔・郎党等を配置し、戦国時代は須田越中守郎党は50数騎を数えた。
明治維新神仏判然令により寺院護持のため神社境内地は中心100間四方となった。森氏国除以前の修営は国守においてその費を補助せられていた。現本殿は嘉永3年9月9日上棟。
明治5年戸籍編製に際して旧35区の郷社に列し、昭和20年8月10日県社内定を受く。明治44年には上河内地内の、大正2年には中河内地内の各神社を合祀した。
戦後境内社として護国神社、氏子祖霊社を創建、毎春祭祀を行っている。
岡山県神社庁公式サイト より。

神社遠景

鳥居と社号標

茅の輪

境内石垣前の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和5年(1930)7月建立)

拝殿

本殿


左より護国神社・荒神社・祖霊社

齋神社 龍王神社