熊野神社

倉敷市林684(平成21年8月21日)

東経133度49分20.8秒、北緯34度32分10.88秒に鎮座。

 この神社は郷内中学校の東約400mに鎮座しています。一の鳥居は神社の手前200mにあり、この社の嘗ての繁栄と社地の広大さを偲ばせます。社号標には「日本第一熊野神社 十二社権現」とあり、神仏混淆の名残が垣間見えます。
 境内にはいるとすぐ左手には亀の口から水が出ている手水舎があり、広い境内左手奥に大きく綺麗な建物が見えます。この建物がこの社の社殿の特徴の一つでもある長床の拝殿なのですが、平成15年(2003)9月21日に以前の長床拝殿は焼失し、再建されたのだそうです。
 又、参道右側は五流尊瀧院で、県指定重要文化財の三重塔が夏の陽に映え堂々とした姿を見せていました。
 長床拝殿の右側に付けられた参道を尚も奥に進むと、悉く国・県の重文に指定されている素晴らしい六棟の本殿が、檜皮葺の優雅な姿を見せてくれます。これだけの見事な社殿が並ぶ様は壮観…としか言いようがありません。暫くは二人して見とれておりました。
 境内左奥には八尾羅宮が祀られていますが、この社は児島が島だった頃、狐などによる農作物の被害が多大で氏子の人達が熊野神社に祈願したところ、神社の西に祠を建てれば、狐達はここに集まり田を荒らさなくなるとのお告げがあって建立されたのだそうです。するとすぐに被害少なくなり、集まってきた狐達はお礼に熊野神社の護り動物となったのだそうです。
 下調べをしない私達はただ偶然にこの社に行き着いただけなのですが、こんなに素晴らしい神社に参拝できたことは、この上ない幸せでした。

 御祭神:熊野牟須美神(伊弉冉大神)、泉津事解之男神、速玉之男神、伊奘諾大神、家津御美子大神 (素戔鳴尊)、天照大神、忍穂耳尊(正哉吾勝勝速日天忍穂耳命)、瓊瓊杵尊(天津日高日子火瓊瓊杵命)、彦火火出見尊(天津日高日子穂穂手見命)、鵜草葺不合尊(天津日高波限建鵜草葺不合命)、軻遇突智尊、波邇夜須毘賣神(埴山姫尊)、罔象女尊、稚産霊尊、八百萬神
 祭礼日:1月・新年祈願祭 とんど、5月18・19日・春季大祭、7月第4土曜日・夏季大祭、10月第1土・日曜日・秋季大祭、11月・七五三詣
 境内社:八尾羅宮
 由緒:西暦六三四年、役行者(役小角)は茅原(ちはら)の里、奈良県南葛城郡葛城村に生まれ、当時の仏教とは違い、直接、民衆を救い、自分も修行をしていくという宗教観を持っていました。紀州、熊野大峯の山々で修行を重ね、修験道の開祖となりました。
 ところが、役行者が民衆を惑わすという罪で伊豆大島に流され、高弟たちは紀州熊野の十二社権現の御神宝を奉じて瀬戸内海に逃れ、四国九州に浄域を求めた後、児島の柘榴浜に上陸し、熊野道といわれている山道を通り、大宝元年(701)三月三日、福岡の里と呼ばれていたこの地に鎮座祭典をし、それが、現在の春のお祭り(五月十八・十九日)です。
 天平十二年(740)、聖武天皇は児島一円を本宮の御神領として寄進しました。現在地に社殿を建立したのが始まりです。
孝謙天皇紀(749-758)には、紀州熊野権現に対して日本第一の称が与えられ、当社もその号を称することになりました。
 承久の乱(1221年)に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流され、その第四皇子で、鎌倉幕府第四将軍になる候補であった冷泉宮頼仁親王は、この地に配流されました。また、弟の桜井宮覚仁親王は乱を恐れ、この地に赴任し尊瀧院の住職となりました。公卿山伏といわれる由縁です。
 応仁の乱(1469)で開幕となった戦国時代の兵火のため、社殿をことごとく焼失してしまいました。
明応元年(1492年)、社殿は天誉長老により再建されました。国の重要文化財に指定されている第二殿が、その時建立されたものだといわれています。以後、復興を見ますが、次第に社領は減少し、中国管領大内義興、毛利家父子の守護を受けましたが、児島一円の領地はわずか三ヵ村に減ってしまいます。
 西暦1600年代半ば、池田光政公により、吉備津彦神社の大守家から神官が赴任され、祭祀を専らにさせるなど、あつい保護の下に明治に至りました。
 慶応四年三月(1868)、神仏分離(神仏判然令)により、現在は、宗教法人熊野神社、宗教法人修験道五流尊瀧院と呼ばれています。
 平成十五年(2003)九月二十一日、所有の熊野神社長床拝殿を焼失しましたが、五流尊瀧院の寛大な配慮により、再度、氏子や近在の崇敬者により拝殿が再建されました。
「熊野神社」公式サイトより)

  当社は往昔から熊野十二社権現として広く知られた大社で、文武天皇大宝元年(701)3月紀州熊野本宮を遷座した。
 聖武天皇は崇敬厚く児島一円を本宮領として寄進された。本宮に模して社殿を造営し、木見に新宮、山村に那智宮を建て、新熊野三山とした。
 熊野詣でが盛んになるにつれ当社参詣途次の奉幣所とし
て九十九王子権現を建て、又付近に山伏、別当の付属僧坊等、50余ケ院に及び、当社の出仕寺院とした。
 孝謙天皇は紀州熊野山に対し日本第一大霊験根本の称を奉られ、当社もその号を称する事になった。白川上皇以後代々の上皇、貴紳院等続々紀州へ参詣され、特に後白川上皇34度、後鳥羽上皇29度を数えた。
 元久2年には児島一円を本宮神領として再度寄進があり、紀州熊野から荘務執行仕置等の諸役多数が来て、神領としての政を行い紀州との交流も盛んに行われた。
 その後承久3年の乱に敗れ、後鳥羽院は北条氏の為に隠岐島に配流され、第4皇子頼仁親王は当地へ配流となり、26年間御在世の後、薨去され諸興寺に葬り奉った。この間後鳥羽院は隠岐島にて崩去されたので、親王は仁治元年当境内に石造宝塔を建て日々供養されたと伝えられる。
 又桜井宮覚仁法親王も乱をさけ下向されたと伝えられるが、同宮は熊野三山検校宮にて特に五流山伏を取立てられたので、同親王の供養塔も境内池中に建てたと伝えられる。
 これより前、建仁3年児島下之町宗願寺に宝塔を建て、建治2年に熊野道に地蔵を安置し、清田八幡神社、広江に紀州の神倉社を移して天石門別保布羅神社を祀り、俗に釈塔院様として広く信仰を集めた。
 その他玉野市滝「早滝宮」、早島町八尾及備中吉備津の「熊野権現」また、所々に残る「王子権現」等沢山の熊野社が建立され、其後も彦崎の「天神宮」、中庄及西阿知の「熊野神社」等々多くの分社や関係社が建立され、如何に大きな勢力を持っていたかを物語っている。
 その後元弘の乱に朝廷に味方した紀州熊野藩別当も戦に敗れ大きな痛手を蒙り、又当社僧の縁族も南朝に従い敗れるに至りさしもの大きな勢力も衰微するに至った。
 応仁3年兵火の為社堂悉く炎上に及んだが、別当大願寺天誉再建を志し諸国勧進の後、明応元年先ず一殿建立(重文)以後復興を見るに及んだが神領は次第に減少した。
 中国管領大内義興、毛利家父子の守護を受けたが児島一円の領地は僅か3ケ村に減じ豊大閣の時年百石の寄進があり、応て池田光政公寺院陶法の節当社の由緒を尊び備前藩特別崇敬社とされ社殿(県重文)の建替を命ぜられ年2百石寄進された。更に神社としての祭祀を明確にする為備前吉備津宮大守大藤内の弟に移住を命じ、神前祭祀を専らにさせる等厚い保護の下に明治に至った。
 この様に大変古い歴史を持ち乍ら延喜式神明帳に載らなかったのは、一つに紀州熊野が最高位の官幣に預っていたのでそれでよいと考えたこと、奉仕が僧、山伏で仏教色が強かったことによるものと考へられるが、当社の本源は紀州と同じく神社であるので、昭和19年官社昇格を申請中の処終戦に至り、社格の高下は無くなった。然し社堂悉く国、県の重文であり境内山林共に史跡指定を受けた事は他社に比を見ないことであり、日本人の心の拠所としその維持保存に万全を期している。
 「・・・一度致参詣即十二時擁護、一念至信敬能払年中十二障難、誠利生度大功在、熊野山神威重徳極十二所権現者也」(熊野霊験記)
(「岡山県神社庁公式サイト」より)

神社の手前約200mに建てられた一の鳥居 社号標
「日本第一熊野神社
十二社権現」
鳥居後ろにいる嘉永3年生まれの浪速狛犬
阿は口中に玉を含んでいます。おっとりした感じで、臑毛が長く装飾的な狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(嘉永3年(1850)8月吉祥日建立)
参道の様子

境内案内図(手書きというのは珍しいですね。暖かい感じがして嬉しいです。)

境内の様子
入口左側にある手水舎
亀の口からお水が出ています。
長床拝殿
平成十五年(2003)九月二十一日、長床拝殿は焼失し、再建されたそうです。
参道の様子
建ち並ぶ本殿手前にいる明治40年生まれの備前焼宮獅子
狛犬の拡大写真はこちらで
(明治40年(1907)1月吉日建立)
国、県の重文に指定されている本殿全景
左から、第一殿・西御前、第二殿・中御前、第三殿・證証殿、第四殿・若宮、第五殿・忍穂耳尊、第六殿・瓊瓊杵尊、第七殿・彦火火出見尊、第八殿・鵜草葺不合尊、第九殿・軻遇突智尊、第十殿・波邇夜須毘賣神、第十一殿・罔象女尊、第十二殿・稚産霊尊、萬山護法宮・八百萬神 
境内左端に祀られる八尾羅宮
第一殿 西御前・熊野牟須美神(伊弉冉大神)、泉津事解之男神
第二殿 中御前・速玉之男神、伊奘諾大神、高天の原
(県指定重要文化財)
第三殿 證証殿・家津御美子大神 (素戔鳴尊)
(国指定重要文化財)
第四殿 若宮・天照大神
(県指定重要文化財)
第五殿・忍穂耳尊(正哉吾勝勝速日天忍穂耳命)
第六殿・瓊瓊杵尊(天津日高日子火瓊瓊杵命)
第七殿・彦火火出見尊(天津日高日子穂穂手見命)
第八殿・鵜草葺不合尊(天津日高波限建鵜草葺不合命)
(県指定重要文化財)
第九殿・軻遇突智尊
第十殿・波邇夜須毘賣神(埴山姫尊)
第十一殿・罔象女尊
第十二殿・稚産霊尊
(県指定重要文化財)
境内右端の萬山護法宮・八百萬神
(県指定重要文化財)
本殿後ろに祀られる末社 本殿後ろに祀られる磐座?

「五流尊瀧院案内図」はこちらで

五流尊瀧院本堂 五流尊瀧院拝殿
県指定重要文化財・五流尊瀧院三重塔