船江太神宮

新潟市中央区東堀通 (平成18年5月4日)

 この神社は信濃川に架かる昭和大橋の北、白山神社東の一角に鎮座しています。
 表参道は古町通の方に面していますが、そちらには鳥居が無く、商店街の一角の路地のような道路が参道になっています。地図には「船江大神宮」とありましたが、拝殿の額には、「船江太神宮」と書かれています。東堀通の入口に建っている社号標「神明宮」が正式名のようで、新潟総鎮守だそうです。今ではすぐ近くの白山神社も新潟総鎮守となっています。もっとも総鎮守も一宮も時代の変遷とともに変わっていったので、一地域に何社かあるのは知っていますが…。
 参拝のしおりによると「天正年間(1573〜1591)までは、船江神社・神明宮ともに各々が境内を持つ独立した二つの神社でした。明暦年間(1655〜1658)以降に、同じ境内地の内にそれぞれのお社が並列して建てられ、「船江神明」と称されておりました。その後安政5年(1858)に現在のように合祀されました。
 船江神社は、崇神天皇10年6月(240頃)に建立されました。当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。これに驚き、また大変喜んだ村人たちは、この船魂「猿田彦大神」をお祭するため早速お社を建立し、大切にお守り致しました。この時の船は新潟の船の起源とされ、また地名も船得郷と改められ、その後「得」を「江」に転じて船江大神と崇められました。延長5年(927)、延喜式神明帳に越後の式内社と記載され、神祇官から官幣をいただいております。
 神明宮の創立は不詳でありますが、天正19年(1591)、上杉家より米四斗七升二合、社地二千坪の寄進と共に直江山城守兼続より真筆の「高天ケ原」額並びに黒印書を賜り、御師次太夫が神明宮の神職として任命されました。またこの黒印書の由来から、明治に至るまでの間、諸役が永年免除されておりました。
 元禄年間(1688〜1703)のころから船江大神宮と称せられ始めました。
 文政6年(1823)2月、神祇伯白川家と並んで全国の社家を統轄する吉田家より船江神社の社号を、また安政5年(1858)には、船江大神宮の社号を、栽司されました。明治元年に村社に列し、同5年3月、 新潟総鎮守として全市民の氏子札を届けてあります。新潟縣初代縣令正三位永山盛輝真筆の社名額が奉納され、現在も拝殿に掛けられております。
 当神社は古典にその社名をみることのできる新潟で一番の歴史を持ち、総鎮守として尊崇される神社です。」とあります。御祭神は天照大神,豐受大神,猿田彦大神,大彦命(四道将軍)です。

「総鎮守・神明宮」の社号標 表参道入口
拝殿 拝殿の額
本殿 神楽殿
境内社・八幡宮 素敵なお手水と芭蕉句碑