呉津彦神社

高市郡明日香村栗原714 (平成23年1月8日)

東経135度48分40.45秒、北緯34度27分2.45秒に鎮座。

この神社は、キトラ古墳の北東500m程の辺り、栗原集落中の高台に鎮座しております。雄略天皇は倭の五王の一人であるが、宋に遣使して上表文を奉ったようです。『日本書紀』の雄略紀によれば、天皇は史部(ふみひと、朝廷の書記官)の渡来人、身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を寵愛し、何回も呉の国に派遣されいます。雄略14年1月、呉王が献じた手伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫の兄媛(えひめ) ・弟媛(おとひめ)ら呉人を檜隈野に住まわせ、それで呉原と名付けたといわれております。栗原の由来のようです。栗原に居住した呉人たちの祖神を祀った神社が、「延喜式」神名帳の高市郡「呉津孫神社」と言うことになっているようです。

参道入口

参道と「呉津彦神社」の額

境内

社殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(慶応4年(1868)戊辰6月建立)

天児屋根命・木花咲耶姫命を祀る二つの社殿。何時の頃変えられたのでしょうか。

左手が本来呉人の祖神である呉津彦神を祀った鎮守神社のようです。右手は八王子神社。


石仏

境内入口の御神木