入鹿神社

橿原市小綱町335(平成23年1月7日)

東経135度47分17.19秒、北緯34度30分31.58秒に鎮座。

 この神社は大和八木駅の西南西約600mに鎮座しています。
 入口に立つ鳥居を潜ると境内には一面に砂利が敷き詰められ、左には入鹿神社と同じく、もとは普賢寺の建物で、現在は正蓮寺が管理する大日堂(重文)が配され、正面奥に千鳥破風付きの拝殿が建立されています。拝殿内には随神像の代わりに、板戸に随神さんの絵が描かれており、後ろの玉垣内に市指定文化財の本殿が基壇上に建立されています。
 その他、境内社が四社祀られ、拝殿前に浪速狛犬がいます。
 今回地図を見ていて、たまたまこの「入鹿神社」を見つけ「何故入鹿が神になったのか?崇敬者はどんな人達なのか?」という疑問がわき起こり、参拝の運びとなりました。
 学校の日本史の時間では「蘇我入鹿」は歴史上に残る「大逆臣」「大悪人」という事になっていますが、現在の橿原市周辺は蘇我氏縁の地で、今回は行けませんでしたが、隣の曽我町には馬子が創建した宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖が祀られています。どうも、怨霊鎮魂の神社ではなさそうですね。それどころか、ご多分に漏れず「入鹿神社」は明治時代に「逆臣の蘇我入鹿が御祭神」ということから、御祭神の差し替えを要求された経緯があるそうですが、地元住民はそれを拒否、現在に至ったそうです。日本三大敵討ちで有名な「赤穂浪士」で、意地悪な極悪人とされている吉良上野介が、本当は英明な藩主だったようで地元で人望が厚いように、ここ橿原市では地域住民の蘇我氏に対する崇敬の念は、現代に至るまで連綿と続いているようです。


 御祭神:素盞鳴命、蘇我入鹿
 祭礼日:10月第二土・日曜日
 境内社:四社
 由緒:当社は廃普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。祭神は素盞鳴尊と蘇我入鹿の両柱を合祀している。
 本殿は一間社春日造で、身舎は丸柱、柱上に三斗を組み背面を除く頭貫桁間に中世風の面影を残す蟇股を置く。、屋根は檜皮葺で、棟は箱棟に千木、かつお木を取付けた江戸初期位の建物である。
 尚、近年老巧化が進み、昭和61年度に解体修理が行われた。
(境内案内板より)

 蘇我入鹿とスサノオを祀る。スサノオは明治時代より祀られたものである。
 蘇我入鹿の木造坐像を神体とする。現在の橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」といった地名も残る。小綱町の隣の曽我町には、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖を祀っている。
 明治時代に、皇国史観に基づいて逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、地元住民はそれを拒んだという。日本書紀に基づいた「蘇我氏逆臣説」が日本史に通説となっている今に至るまで、地元の人々から崇敬を集めている。
 境内には神宮寺としてかつて仏起山普賢寺があり大日如来が祀られていた。神仏分離の際に普賢寺は廃寺となったが、建物と本尊の仏像は残されて成等山正蓮寺の管理となり、「大日堂」という名称で現存している。大日堂および大日如来木像は国の重要文化財になっている。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

入口に立つ一の明神鳥居
境内の様子
拝殿前、安政5年生まれの浪速狛犬
彫りの丁寧な、重厚な狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(安政5年(1858)戊午9月吉日建立)
拝殿
拝殿内の様子
拝殿正面の扉両脇には、随神像の代わりに、板戸に随神さんの絵が描かれています。
市指定文化財・本殿
江戸初期の建物で、檜皮葺一間社春日造。左斜め前方と右斜め後方からの写真ですが、本殿は前方からは殆どどの位置からも、しっかりとは見ることが出来ません。
境内社入口
境内社 境内社
境内社
境内社 庚申塔

境内左に建つ重要文化財・正蓮寺大日堂