崇道神社

御所市櫛羅32(平成23年1月7日)

東経135度43分27.81秒、北緯34度27分35.53秒に鎮座。

 この神社は近鉄御所駅の西約1km、30号線に参道入口が有り、奥に引っ込んだ感じで社地が造られていますが、ご神木の大樹・ムクロジが遠くからでも良く見えるので、目印にすると良いと思います。
 入口に案内板があり、路地の奥に鳥居が立っています。境内に入ると右に一本、左に二本のムクロジが聳え、瓦葺入母屋造の拝殿と、ブロック塀の中に浪速狛犬が護る春日造の本殿が建立されています。

 御祭神:崇道天皇(早良親王)
 祭礼日:不明
 由緒:創建年月日並びに自後の履歴不詳。
 崇道天皇は、早良親王に与えられた追号である。早良親王は、父、光仁天皇(49代)と母、高野新笠との間に生まれ、兄は桓武天皇(50代)である。はじめ出家したが、父、光仁天皇が即位すると親王となり天応元年(781)、兄、桓武天皇の即位と同時に皇太子となった。桓武天皇にはすでに皇子があったのであるから、おそらく父、光仁天皇の意志によったものであっろう。
 このため、桓武天皇と弟、早良親王との間は、あまり円満でなく、天皇の親任厚い、藤原種継とも人事問題が絡んで不和だったようである。
 延暦3年(784)長岡遷都がおこなわれたが、翌年主唱者の藤原種継は暗殺された。
 事件の首謀者として、大伴継人、大伴竹良や前月病死した大伴家持などがそれぞれ処分されたが、早良親王も関係者として乙訓寺に幽閉され、自ら食を絶って淡路へ移送される船中で死んだ。
 現在の「続日本紀」には関係記事が削られているので詳細は、わからないが藤原氏政権獲得の犠牲者として世人の同情も集まったようである。
 そのころ、皇室に種々不幸が起り悪疫も流行したが、みな早良親王のたたりとして恐れられ、延暦19年(800)に崇道天皇の追号が贈られた。
 長岡京が廃止されたおもな理由もこれによる。京都市上京区の御霊神社にまつられている。
 奈良時代から平安時代にかけて、不遇の死を遂げ、この世に怨みを残した人々の霊魂、つまり怨霊を恐れる思想がひろまった。とくに偉大な個性を持った人物ほどその祟りは恐ろしいものとされた。
 延暦4年(785)に没した崇道天皇や延喜3年(903)配流地の太宰府で客死した菅原道真がその代表的なものである。

30号線の参道入口
参道入口に立つ案内板 参道と天高く聳え立つご神木のムクロジ
境内入口に立つ明神鳥居
境内の様子
拝殿
春日造の本殿
本殿前にいる浪速狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで
境内左に聳えているご神木・ムクロジ2本
幹周・4.1m、樹高・32m
境内右に聳えているご神木・ムクロジ
幹周・4.66m、樹高・38m