長崎県

県名の由来は、長い岬のある所とか、長崎港を開港した長崎勘左衛門の姓からとった名前という説がある。長崎港は江戸時代の鎖国政策のなかで、唯一外国との貿易を許された港だった。
現在の長崎県は九州の北西部に位置し、総面積の45%を占める島々が南北300キロメートルの範囲に広がり、全国第2位の海岸線延長をもつ風光明媚な海洋県。豊かな海を舞台に水産業が発達するとともに、現在では海洋資源を活かした、観光・海洋技術開発が進んでいる。また、わが国の西端に位置し大陸に最も近いため、古くから大陸文化の導入口、朝鮮半島との外交の舞台、鎖国時代には西欧や中国・朝鮮への唯一の窓口となり、今日でも国際性豊かな県として知られる。

もと火の国に属したが,律令時代に肥前・肥後に分かれる。『持統紀』10年条に肥後国とあるので,天武,持統朝のころには分立したと考えられる。『肥前国風土記』に基頴(きい)・養父(やぶ)・三根(みね)・神崎・佐嘉(さが)・小城・松浦(まつら)・杵嶋(きしま)・藤津・彼杵(そのき)・高来とあり,11郡よりなる。中世には留守所が,1114年(永久2)に置かれ,長期にわたって東大寺の知行国とされた。1197年(建久8)の「肥前国図田帳」断簡には総田数を1万4,332町とするが,勅免分の主なるものは院御領袖埼3,000町で,836年(承和3)の勅旨田に由来するという。のち関東御領となった。松浦郡には松浦党が,小城には千葉氏などが活躍したが,戦国期には龍造氏が肥前をおさえた。近世には鍋島氏をはじめ,唐津・大村・平戸・五島などの諸藩が置かれた。 1878年(明治11)には,松浦郡は東西南北の4郡に分かれ,高来郡は南北2郡,彼杵郡は東西2郡にそれぞれ分割された。
〔参考文献『長崎県史』〕