八幡神社

島原市中安徳町丁4178付近(平成24年8月19日)

東経130度22分06.45秒、北緯32度44分32.93秒に鎮座。

 この神社は平成3年に噴火、多大な被害を及ぼした雲仙普賢岳の東山麓に鎮座しています。由緒にも記されているようにこの地域、神社も火砕流・土石流により、土砂で埋め尽くされ、その後に復興された模様です。
 あれから21年の歳月が過ぎ去り、周辺には穏やかな光景が広がります。神社もとても綺麗に整備され、落ち着いた佇まいを見せています。自分たちの生活も大変だったでしょうに、心の故郷、地域の拠り所である神社の再興を果たした氏子さん達に、思わず頭を下げ、厚い思いが込み上げてきた神社でした。

 御祭神:譽田別命
 祭礼日:10月29日
 由緒:平成3年6月に始まった雲仙普賢岳噴火災害で、当社の境内は度重なる火砕流・土石流により土砂で埋め尽くされました。それから10年後の平成13年11月に、氏子皆様の「町の復興は、神社の復興から」という熱い思い、そして全国の知人・友人・故郷を離れた氏子皆様の協力により、本格的に八幡神社復興事業が発足しました。そして平成14年12月23日、造営竣工の祭典が盛大に挙行されました。
現在は、神社の背後(西)に平成新山(普賢岳溶岩ドーム、平成8年に命名)が聳え、眼下(東)には有明海を望む風光明媚な境内になりました。

御祭神:譽田別命
 八幡さまが史書に述べられたのは、聖武天皇天平12年(740)に藤原広嗣が反乱をおこした時に大将軍大野東人(おおののあずまんど)に詔して「八幡神」 に祈請せしむと『続日本紀』にあります。
また同じく「八幡神社」とか「八幡大神」また宣命には「豊前国宇佐郡に座す広幡の八幡の大神」とあります。
宇佐の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』等には、八幡様が御出現した欽明天皇32年(571)に「誉田天皇広幡八幡麿」また「我名をば護国霊験威力神通大自在王菩薩」 とも申されていて、「護国霊験威力神通大菩薩」の尊号は、光仁天皇天応元年(781)に上る文書にあり、「大自在王菩薩」は、延暦2年(783)にあります。「八幡大菩薩」と連称する様になったのは、延暦17年(798)の官符にみられます。これらのことにより、927年延喜式神明帳には「八幡大菩薩宇佐宮」などと稱えるよび方が定まり、八幡大神から八幡大菩薩になったことも、天台の伝教大師・真言の弘法大師が、宇佐に参拝したことにより、これからの結合が行われたことからだといわれています。最も天平勝宝元年(749)、奈良の東大寺の大仏の開眼式にのぞむため、八幡神の入京は、大仏の鋳造を助けたという、仏教擁護の社です。 天平10年(738)勅願により弥勒寺が境内に建設され、天平13年(741)には、この八幡神宮に対し、天皇より冠、経文、神馬、僧を奉げられ、また三重の塔が建てられています。
この弥勒寺は、金堂が薬師、講堂が弥勒菩薩であって、その建築様式は薬師寺様式と同じとされています。現社地の亀山に一之御殿が神亀2年(725)に二之御殿が天平3年(731)に建てられた当時は、八幡神宮でありましたが、両部神道が平安初期にあらわれてきて、八幡大菩薩となり、 本地が釈迦とされ垂跡が八幡菩薩とされたようです。

氏神様と氏子について
 氏神とは、古くは一族の守り神のことをいいましたが、今では地域の守り神のことをいいます。例えば旧中木場村の地域(現在の白谷・新天・天神元・仁田・仁田の丘・仁田団地・花木団地・札の元・門内・大下・新湊一丁目・新湊二丁目あたりまで)の氏神様が天神元に鎮座まし坐す天満神社となります。旧安徳村の地域(親和町・南崩山・秩父ヶ浦・船泊・新船泊・北安徳・新切・鎌田・池端・中安徳・大南・浜の町梅園・梅ヶ丘・鮎川あたりまで)の氏神様が中安徳に鎮座されていた八幡神社となるように氏神様に守られている地域の人々すベてを氏子といいます。このように本来住所によって氏神様が決まっていて、毎年それぞれの氏神さまの境内や町内で、お祭りを行なうことで地域の和が保たれていました。
(サイト「島原市安中神社」より)

社頭
神社入口
入口に立つ台輪鳥居 鳥居に掛かる額「八幡宮」
社殿前の境内の様子
妻入りの大きな拝殿
拝殿内の様子
本殿鞘堂 本殿正面
境内から見る現在の雲仙普賢岳(中央)