皇大神宮神社

大村市西本町493(平成24年8月17日)

東経129度57分39.59秒、北緯32度54分06.67秒に鎮座。

 この神社は大村駅の南西約700m、かなり大村湾に近い位置に鎮座しています。
 神社から80m程東の道路上に一の鳥居が立ち、一般道と共用の参道突き当たりに神門が建立されています。神門を潜り社内に入ると境内は綺麗に整備・清掃され、神橋を渡ると木製の二の鳥居。境内左には手水舎が配され、正面に妻入りの拝殿、その後ろのコンクリート造りの覆い屋内に本殿が建立されています。
 又、社殿左には大クスが二本大きな木陰を作って聳えています。

 御祭神:天手力雄命、天照皇大神、萬幡豊秋津姫命、邇々芸命、豊受大神、天兒屋根命、天太玉命
 祭礼日:1月1日・元旦祭、1月11日・伊勢講社祭、2月11日・建国記念祭、4月11日・春季大祭、6月30日・水無月大祓、10月11日・秋季大祭、12月31日・師走大祓、仝・除夜祭
 由緒:皇大神宮は、古くは松竹の小路口(現・小路口公民館)に鎮座しましたが、焼失したために宝暦4年(1754)に大村藩八代藩主・大村純保公によって、大村城下の田町(現・東本町 警察署長官舎地)に再建された。その当時より伊勢神宮の御師という神主が当地方にも下向し、この皇大神宮を拠点として伊勢神宮のお札(お祓い大麻)を領内に配り、また御祈祷をなし、当地方での伊勢信仰の浸透に重要な役目を負った。安永6年(1777)の記録では、藩内全戸数の約半分にあたる
9550軒に伊勢のお札が配られている。
 大村地方を受け持ったのは、外宮の御師・宮後三頭太夫であった。田町にあった皇大神宮の社殿再建にあたって、三頭太夫は伊勢神宮の式年遷宮で余った余材を大村まで運び、また伊勢から大工・縫子などを伴って造営工事を主導するなど、大変な力の入れようであった。
 その後、田町の社地が狭かったために、第十一代藩主大村純頭公により草場浦の海を埋め立て新たに境内地が開かれ、天保12年(1841)にここに遷座した。この新社地が現在地である。当所の構えは三方は海に囲まれ、社殿に通じる正面には木橋がかかり、四方「水通し」によって清浄な境内が確保された。この構えも宮後三頭太夫の強い希望によるものであった。
 境内には、社殿とは別に御師屋敷が構えられ、田町時代と同様に年末には、伊勢御師の三頭太夫が伊勢から下向し、この御師屋敷を宿として藩内村々にお祓い大麻を配って廻った。この屋敷の維持費としてお札の初穂料として、藩内の全戸に「伊勢屋敷納銭」(銭12〜120丈)が課せられた。やがて藩内には伊勢講も結ばれるようになり、講の代表はこの皇大神宮に参詣する慣習も生まれた。今に1月11日には伊勢講の代参が行われている。
 明治10年には台風によって社殿が倒壊したために、翌年、市内杭出津の辻田にあった英彦山神社の社殿を移築して用いた。昭和44年には明治百年事業として新社殿が建築されたが、平成19年に白蟻被害により拝殿が建て替えられた。
 この一帯は当神社が鎮座することから伊勢町と通称され、戦後の混乱期には門前の参道には多くの市場が立ち、大変な賑わいをみせたが、商店街の整備によって現在のアーケード街に移転した。戦後、この市場から家業を興した商店も少なくない。

神社から80m程東の道路上に立つ一の台輪鳥居 鳥居に掛かる額
一般道と共用の参道の様子
社頭
神社入口の神門
参道の様子
神橋
境内入口
境内入口に立つ二の木製鳥居
境内の様子
手水舎
参道の様子
妻入りの拝殿
拝殿内の様子
本殿鞘堂側面と正面

ご神木・楠
ご神木・楠